連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

NO8(2001.04.15)   名産「鮎」で町おこし
 明治時代、相模川の舟運の衰退によって、かつての繁栄を失った厚木を救った大きな柱が「鮎」であった。
 相模川とその支流から産する鮎が、江戸時代初期から既に名産として知られていたことは、徳川幕府が編さんした『新編相模国風土記稿』の記述からも明らかである。
 『新編相模国風土記稿』巻之五十四、愛甲郡の「土産」には「年魚」の項があり、次のように記されている。
 「中津川に漁す、古は妻田・金田・三田の3村(現厚木市)より年毎に塩蔵するもの2,000、宇留加(鮎のはらわたを塩漬けにした食品)5升を貢せしに、貞享五年より永銭を領主に収む、角田(現愛川町)・棚沢(現厚木市)熊坂・半縄・八菅(以上現愛川町)5村にても同じ川にて漁するを似、毎年永銭を収む」
 つまり、貞享5年(1688)以前には、中津川から産する鮎2,000尾が塩漬けにされ、またうるか5升(9リットル)が上納されていたものが、貞享5年以降は「永銭」、すなわち上納品に代わる銭として収めるようになったことがわかる。
 また、『新編相模国風土記稿』巻之百十六には、津久井郡の産物にも「鮎」があり、特に道志川の鮎は「鼻曲り」と呼ばれる名品であったことが紹介されている。
 道志川は相模川の支流で、寸沢嵐村(現相模湖町)落合河原で相模川に合流するが、この落合の渡船場には「当国厚木通り、吉野宿へかゝり、甲州への往来なり」と記された街道が通じていた。寸沢嵐村では、例年秋の彼岸の頃に簗を設けて鮎漁を行ない、『新編相模国風土記稿』にはその方法と「道志川簗ノ図」が掲載されている。

投網を打つ漁師「厚木風景絵葉書」<飯田孝蔵>

 では続いて明治初期の状況について触れておこう。 明治9年(1875)1月1日の調査によれば、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)では、52人の川漁者があり、香魚28,572尾、鰻10貫目(37.5kg)が産し、「香魚ハ東京ヘ」輸送されて200円の販売代金があった(『皇国地誌』)。
 相模川・中津川等でとれた鮎は、夕方に厚木の鮎問屋に集められ、ここから鮎かつぎ人夫によって江戸(東京)に送られていた。
 明治初期頃の鮎問屋には、上町(現厚木市)に井上の久さん、下町(現幸町と旭町3丁目の一部)に新屋高梨という2軒があった。鮎問屋に集められた鮎は、江戸かごと呼ばれた細長い竹かごに並べ、このかごを何枚か重ねたものを天びん棒でかついで、青山街道を夜通し馳けて江戸日本橋の川魚問屋へ運んだ。また、横浜へも鮎を出したが、この場合は横浜かごといい、江戸かごより、小さいものであった(『厚木郷土史第2巻』)。
 『街道今昔』によれば、東京渋谷の道玄坂を過ぎて三軒茶屋へ向かう途中にある大坂は難所で、相模川でとれた鮎を日本橋の魚河岸へ運ぶ飛脚たちが苦労した。夜通し厚木街道を走り続け、鮎かつぎ歌を歌いながら運んだが、この坂をあえぎながら登りきる頃に夜が明けたという。坂にさしかかると「大坂くげんだ、団子や起きたかー」という歌声で坂上の人々は目をさましたという。
 このように、相模川の鮎はたしかに特産品ではあったが、あくまでも一かごでいくらという商品価値しか生み出さなかった。
 これに対し、鮎漁遊船会という企画は、東京、横浜をはじめとする各地の団体客の足を厚木に運ばせ、宿泊して鮎漁を楽しむというものであった。1人の来遊客が厚木に落とす金額を、出荷された鮎を1人が購入する代金と比べれば、比較にならないほど大きなものであったことは一目瞭然である。そしてこれを側面から支えたのが厚木の花柳界であった。
 鮎漁遊船会は夏期のみという期間限定であるとはいえ、斜陽の厚木に及ぼした経済的効果にははかり知れないものがあった。料理屋、旅籠、そして花柳界が活気づけば、酒屋、米屋、八百屋、鮮魚乾物屋、豆腐屋などの食品関係業者はもちろん、呉服屋、小間物屋、髪結など、さまざまな関連業者が恩恵をこうむり、夜風にのって聞こえてくる三味線の音色にも一段とはなやかさがただよったことだろう。
 相模川の鮎漁は次第に世に知られるようになり、数多くの団体客が厚木を訪れるようになるのである。
 参考として大正8年(1919)7月の団体客を上げると、次のようになる(『横浜貿易新報』)。
 高座・中・愛甲・鎌倉四郡吏員と県庁職員の一行、東洋電気会社、江商会社、台湾銀行、保々近藤商会、横須賀海軍工廠、日本郵船、田島鉄工場、東京芝浦製作所、古川銀行、横浜八百政ほか。
 これらの団体客は「厚木・平塚芸妓の斡旋にて底抜けの浮れ筋尠からざりし」であったという。

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