連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員

NO9(2001.05.01) 芸妓・芸妓置屋、湯屋の営業免許鑑札
 明治6年(1873)の芸妓規則によって、「芸妓渡世の者は出願の上、鑑札を申受くべき事」が定められた(『女藝者の時代』)。
 これについて『国史大辞典』は、「明治6年(1873)制定の芸妓規則により、鑑札を受ければ割合簡単に芸者になれるようになった。その影響か、全国各地に芸者のいる町、〈花柳界〉が出現した」と述べている。
 『神奈川県史料』によれば、明治7年(1874)三月改正の「芸者渡世規則」によって、「芸者渡世ノモノハ」、「鑑札授与候節、鑑札料金一円可相納、営業中一人ニ付賦金一ヶ月三円ツゝ、其月廿日限、月々相納可申事」とされていたが、同年6月には営業中の賦金が「芸妓金三円、酌人金二円」に改正されている。したがって、明治9年(1876)、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)にいた8人の「絃妓(芸者)」たちも、当然ながら鑑札を所持していたものと見てよいであろう。

芸妓免許鑑札(右)と湯屋営業免許之証(左)<飯田孝蔵>

 では芸妓、芸妓置屋ほか、湯屋などにも出された鑑札が、実際にどのような形態であったのかを、残された明治、大正期の資料によって見ることにしよう。

  芸妓免許鑑札
 表に「芸妓免許鑑札」とある3点の資料は、いずれも長方形の厚紙製である。
 1点の大きさは横7.0センチ、縦9.6センチ、他の2点は横4.6センチ、縦9.6センチとやや小型であり、紙の色も白色と赤色系のものとがあって一様でない。
 これらのうち大正8年(1919)の鑑札は竹千代が所持したものである。明治36年(1903)2月、千葉県に生まれた竹千代の年齢は、鑑札を受けた大正8年6月には17歳であった。鑑札番号は第11号。裏面には厚木警察署の公印が押されているのは、他の2点の資料とも同じである。

 また、大正11年(1922)8月の鑑札はさかえが所持したものであり、同年10月の鑑札は鶴丸が所持したものである。さかえの鑑札番号は第九四号、鶴丸の鑑札番号は第102号となっている。横浜市に生まれたさかえが鑑札を受けた時の年齢は十四歳、鎌倉町(現鎌倉市)出身の鶴丸は13歳であった。さかえ、鶴丸の年齢からは、両人とも半玉としてお座敷に出ながら芸者修業に入ったことが推測できる。
  芸妓置屋営業免許鑑札
 長方形の白い厚紙製で、表には「芸妓屋営業免許証」とある資料である。「芸妓屋」は芸者屋、芸妓置屋、あるいは単に置屋ともいわれ、芸者をかかえておき、料理屋、旅館等の注文に応じて芸者をさし向けることを職業とする家のことである。
 大正11年(1922)のこの資料は、横6.0センチ、縦9.6センチの大きさがあり、裏面には厚木警察署の公印が押されている。免許を受けたのは明治19年(1886)、海老名村(現海老名市)に生まれた男性であり、住所は「愛甲郡厚木町二五一六番地」(現厚木市東町)となっている。
  湯屋営業の鑑札
 明治41年(1908)7月3日の年月日がある資料で、表には「湯屋営業免許之証」と記されている。横6.1センチ、縦10.0センチの大きさをもつ厚紙製で、裏面には「神奈川県厚木警察署」とあって公印が押されている。
 営業人は三橋源司、場所は「愛甲郡厚木町千八百四十五番地」(現厚木市寿町1丁目4―2附近)であり、昭和50年頃まで同所で営業していた竹の湯は、この湯屋を引継いだものであろう。竹の湯を営業していた川口さんによれば、昭和3年(1928)、川口房太郎が二見芳太郎から買取って始めたものであったという。
 ここに湯屋ができたのは、明治後期頃から付近の田んぼが埋立てられ、次第に旅館や料理屋、芸妓置屋、寄席などができ、やがて厚木花柳界の中心として繁栄することと無縁ではなかろう。
 芸妓置屋では自宅に風呂のある家もあったが、かかえの芸者は風呂屋に行くのが通例であった。第2次大戦以前、竹の湯の営業時間はお昼の12時頃から夜の12時頃までで、お湯がわくのを待ちかねるように芸者衆が次々と入りに来たという。

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