連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

NO7(2001.04.01)   東海道線の開通と厚木花柳界
 明治22年(1889)東海道本線が全線開通し、新橋・横浜と名古屋、京都、大阪、神戸が一つの鉄道で結ばれた。
 この東海道線の開通は、結果として厚木における旧来の物資輸送形態と街道を通る旅人たちの流れに一大変化をもたらすものとなった。
 江戸時代、相模川舟運の基地であった厚木には、海運を通じて、相模川河口から全国の物産が集まり、内陸部からは材木、薪炭、年貢米ほかの物資が相模川を下り、海路江戸(東京)へ運ばれていた。
 また、相模川にかかる厚木渡船場には、東海道脇往還である矢倉沢往来(青山街道)や、平塚―八王子街道、藤沢道、甲州街道、丹沢御林道などが集中し、特に夏の大山参りの時期になると、江戸を中心とする関東一円から大山に向かう旅人たちで賑わった。 
 しかし、東海道線が開通すると、物資の貨車輸送がはじまり、旅客が汽車を利用するようになって、厚木の繁栄は衰退の危機にさらされることになるのである。
 大正4年(1915)の『湘南消夏録』には、
 「厚木は相模平野の中央に在るので、該地方政治商業の中心となり、郡役所あり、1・5の日に繭糸市が立つ。併し鉄道布設以前には、秦野の葉煙草は先ず駄馬にて此地に来り、夫より相模川を舟積にて平塚に出で、更に海路東京へ輸送したのである。又大山参詣も、東京人は青山より大山街道を経て此地に出で、登山したので、大に繁昌したものであったが、鉄道の開通以来、此等の交通皆無となり、又不幸にも3回の大火災に罹りて、戸数は其度毎に減少し、追々衰微の傾向にあるは、時勢の変遷止む可からざる次第である」という、厚木の商人内田正治翁の談話が収録されている。
 このような厚木の状況に対し、東海道線の停車場ができた平塚は、大山参詣の玄関口として賑わうようになった。
相模川を往来する東海道線(明治27年「神奈川県地誌」)<飯田孝蔵>
明治29年(1896)発行の『平塚繁昌記』は次のように記している。
 「本町(市政施行以前の平塚町のこと)現時ノ繁昌ヲ拡セン其因何ゾヤ、独リ交通機関ノ利便ヲ占ムルニ依ル(中略)、此地相陽一帯の咽喉、幸ヒニ東海道ノ停車場ニ当リ、百貨輻湊シ貨車積卸日々十台ヲ要ス、且ツ夏季ニ当リテヤ大山ニ賽スル者来往ヲ汽車ニ取リ、以テ茲ニ集マルコト絡繹織ルカ如シト」 そしてこのような状況の失地回復策として浮上したのが、厚木の名産である鮎を目玉とした鮎漁遊船会であり、この鮎漁遊船会に訪れる横浜、東京方面からの客を接待する花柳界の充実であった。

 厚木への旅客を奪った東海道線を逆に利用し、横浜や東京方面からの鮎漁客を平塚まで運び、ここから人力車や馬車で厚木へ。自然豊かな相模川に浮かべた屋形船に芸者を伴って鮎漁を楽しみ、帰路は平塚まで相模川を船で下るという鮎漁遊船会の企画は人気を博し、しだいに数多くの人々が厚木を訪れるようになるのである。
 厚木芸妓営業合資会社の創業は、明治32年(1899)、相模馬車株式会社が創立されるのは明治34年(1901)のことである(『神奈川県統計書』)。これに加え、明治中期頃から輸出の花形となる生糸や、繭の取引市場が厚木に開設されると、厚木の町には大金が舞い、繭糸商人たちが料理屋を利用するようになるのも花柳界発展の追い風となった。
 幕末期、ベアトが写した厚木の街並の写真で、厚木宿大通り中央を流れている掘割が、「生糸市場開設ニ付埋ル」のは明治18年(1885)であった(『厚木市文化財調査報告書』)。
 昭和9年(1934)に発表された「厚木音頭」は次のようにはじまる。
  繭の山から/厚木が明けりゃ/銀のうろこの鮎おどる
 「繭」と「鮎」が、新しい時代の厚木の産業と観光をささえる大きな柱となっていたのである。

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