言葉と精神の離乳食★わらべうた

大熊進子

NO.10

 でんでんむしと紫陽花

でんでんむし
 6月になると衣替え。持統天皇の「はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま」を思い出します。「ほすてふ」で「ほすちょう」って読む。百人一首を読むと旧かなづかいの面白さにうっとり。フランス語は書いてある通りには読みません。日本語もそうなら嬉しいんだけど、今では簡略化されてちと面白さに欠ける感じがします。ヨーロッパ各国はずいぶん頑固に自国の文化を固守しています。
 ハンガリーという国は回りに接している国とは文法が違います。日本語と同じです。しかしヨーロッパの真ん中にあるし、今までの歴史が示すとおり、ずいぶんトルコやドイツ圏の影響を受けています。それでも頑固に自分の国の文化を守り続けようとしています。
 アインシュタインやチャップリン、古くはシーボルト、ラフカデイオ・ハーンなどが「美しい日本の文化をなくさないように」と願ったことははかなく消えたのでしょうか? 外国人が感じる日本と私たちが感じる祖国の間に何かがあるのでしょうか? こんなことを考えながらいつも道を歩いています。そうすると何気なくでんでんむしに出会ったりします。   
 「でんでんむしとナメクジは何処が違うか」で、先週も子どもたちが議論していました。「ナメクジ」は見つかったら塩をかけられる運命にあるけど「でんでんむし」は「アッ、でんでんむしだ〜!」と言われてそのまま見過ごされるか飼われる運命にあります。丁度家の前で捕まったでんでんむしを囲んで子どもたちの観察が始まりました。出てきました、出てきましたとんがったやつが……。「角出せ 遣り出せ 目玉出せ だから全部で6個何かが出て来るんではないか?」との私の思いに、子どもたちは沈黙してました。どうなんでしょうか? 
 「でんでんむしむし かたつむり おまえのあたまは どこにある つのだせ やりだせ あたま だせ」という歌がすぐ浮かぶのは私だけでしょうか? でもあの歌はソドドソミソソミドミミレドと最後は歌わなくてはならず、ラッパの音階のようなものですから幼児にはとても難しく、音痴のようになってしまいます。だからと言って歌わせないと言うことではなく、大人が興に乗って歌っていて、それを聴いて歌う子どもがたとえ音痴であろうと聞いているだけでいいのだと思います。子供用には関東の歌ではありませんが「でんでんむし でむし でな かま ぶちわろ』と言うのがあります。ドレドドレララ レドレミ ドドレ と言う関西風のメロデイーですから違和感がある方はお歌いにならなければよろしいかと思います。
 この歌を歌ったら子どもの反応は色々、『ブチブチが出るのか〜、かいいかな〜?』(この子はつい先日麻疹にかかった)、『カマブチってなんだ?』、等々。自分たちの使わない言葉に接すると子ども達も大変なようですが、たまたまおじいちゃんが関西出身などと言う子供がいると彼らの世界が新幹線のように遠くまで広がることもあります。子どもと接しているとすべて瞬間勝負。オチオチしていられません。
 そろそろ雨期。でんでんむしと紫陽花の季節かしら。でも今年の5月末、私の目に良く飛び込んできた花は黄色い花。紀子様のお印の木香薔薇でした。卯の花に似ているように思いましたが違いました。生育が早く、枝に棘がなく、新芽の出た太い枝を花が終わった頃挿すとすぐつくと教わりました。エゴノキも花盛りを過ぎやがて実がなり種が出来、その種から油をとるそうです。その油は何に使うのでしょうか? エゴノキの種は茶色くて軽くて可愛らしい姿です。お手玉にでも入れたら軽くていいかもしれません。そろそろ蛍の出番です。
 蛍の歌は全国で数え切れないほどありますが、一般的なのは『蛍の宿は 川端やなぎ〜』と言うあれでしょう。全国民が知ってる(オーバーな!)歌がひとつでもあるということは素晴らしいことではありますが、各地にある歌が消えてしまうことはゾッとするほど残念なことです。

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