連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO12(2001.06.15) 明治39年の厚木芸妓人気投票

 明治36年(1903)発刊、『横浜繁昌記』に収録された「県下の名勝旧蹟」のうち、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)の項を見ると、「商業も繁昌し、芸妓営業株式会社と云ふ珍しいものがある」という花柳界の紹介記事が載っている。
 『横浜繁昌記』がいう「芸妓営業株式会社」とは、明治37年(1904)に解散決議をする「厚木芸妓株式会社」のことであろう。
 
 いずれにしても。会社組織として新時代に対応しようとする厚木花柳界の意気込みが感じられる。
 ではここで、明治39年(1906)8月に行われた厚木町花柳界芸妓人気投票について、「東海新報」の記事から紹介しておこう。
 「東海新報」によれば、「久しく消沈しゐたりし厚木町の花柳界も、夏期に向ひてよりは大いに景気付き、近来は殆どお茶挽猫皆無のありさまにて、中々上景気なるに、搗て加へて(かてて加えて。「更に」の意)芸妓投票の事ありし為、一層活気を添へたるが」、「目下の概況を報ぜんと」記事にしたものであるという。
 なお、記事中にある「お茶挽猫(おちゃひきねこ)」の「お茶挽」とは、芸妓や遊女が、客がつかなくてひまなことであり、「猫」は猫の皮を胴張にした三味線の異称であることから、三味線をつかう芸妓の異称ともなっている言葉である。
 さて、その概況とは、
 〆の家の〆次
 当選した〆次は、「町内の老若男女、奥さん連より妻君達までの愛顧一身に集まりたる為」、当選の栄を得た。〆次は近日中にひいき連を招待して、当選祝とお礼を兼ねた宴会を開く予定であるという。
 大沢家の大吉
 大吉は、7月中旬に「或る客筋のお安くない」人と徒痴狂(とちぐるい。「ざれあう」の意)って、「冗談から困った事になり」、その上「脳震疼(のうしんとう)とやら云ふ病に犯され廃業して」看護婦杉山方に引き取られて現在療養中である。
 浜田屋の小蝶
 小蝶は、過日の投票には高点で当選しようと、大動運を行った。主人からは、7,000票もあれば当選間違い無いといわれ安心していたところ、当選が何万という数にのぼってしまったため、「オヤオヤと、青菜に塩の姿」となったとか。
 高島亭の太郎
 太郎の客に対するもてなしぶりは姐(ねえ)さん株にも劣らないところがあるが、客によっては人が違ったように毛嫌いする性質のため、「時々大事の客を玉なし(たまなし。「だいなしにする」意)にすることがあるという。
 大和屋のとし子
 とし子は、今年1月から一本(いっぽん。「一人前の芸妓」の意)になって、中々人気がある。この妓(こ)は年齢、行動共に少女じみているけれど、「お客とサシとなると」、年に似合わぬ客あしらいで、「如何なる渡辺の綱的人物(源頼光の四天王の一人)なりとて、必ず引き止められて」、よろい兜もぬぎすてて、たちまち有頂天にさせられてしまうとのことである。
 「東海新報」の記事文末には、「(まだある)」として続きのあることを示唆している。当選した〆次は、最初の厚木音頭に曲付した〆の家〆次であろう。
 〆次について、明治24年(1891)、東町の大坂屋で生まれた「主人の叔母さん」は、「郷土今昔物語 厚木の花柳界」(『神奈川県央公論』)誌上で次のように語っている。
 「芸者といえば〆次というぐらいのいい芸者」がいました。あれが名妓というんでしょうね。美人という程ではないが品があって、三味線、鼓、太鼓、お琴、踊りから茶の湯に生け花、なんでも出来ないものがない、この人が長(おさ)で若い妓に芸とお座敷の心得を厳しく仕込むんですから、その頃の芸者は風格というか、品格がありましたね。何しろお客が芸が出来るから、芸なしでは、お座敷に出られないんですよ。」
 〆次が営業した置屋は〆の家。大正末年頃の『厚木芸妓屋組合名簿』を見ると、〆の家はその筆頭に記されているのである。

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