連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO11(2001.06.01) 明治時代の厚木音頭
 厚木の花柳界関係者によって、はじめて厚木音頭が作られたのは、明治38年(1905)夏であったといわれている(「詩のまち・歌の町」)。
 この厚木音頭は、現在唄われている「厚木音頭」(栗原白也作詩・大村能章作曲)とは全く曲調が異なり、江戸情緒を伝える清元調の曲であった。大村能章作曲の「厚木音頭」が発表されると、旧来の「厚木音頭」は曲名を「厚木小唄」と変更して歌われるようになるのである。
 清元は清元節のことで、清元延寿太夫を祖として文化年間(1804〜1807)頃に始まった浄瑠璃節の一派である。清元延寿太夫は富本節から出て清元節を創始したが、曲調は富本節よりさらに大衆的で清艶であった。


 清き流れの相模川/船を浮べてすなどりの
  取る手遅しと待ちわびる/この手がしわの大船小船
 岸にこだまの賑いは`/流れにうつる川千鳥
  調べに通う客の声/遠音もよいよい/よいやさ
 
 帆掛けの船に竿やすめ/真向の山も青々と
  繁れるすそから水の音/吹き送られて川々へ
 遊ぶ小舟の心よき/想いをここに相模川
  客のある日をいとどなお/よいよいよいよい/世の中

 げに勇まし丈夫が/玉の裏波けたてつつ
  こまを打ちなす裏方を/弓につるいとたらし姫
 おどり込んだる魚の名を/鮎と仰せの始めとや 
  さいさきも/よいよいよいよい/船の中

厚木音頭を作詩した吉村太平(翠柳亭彳)(『柳風肖像狂句百家仙』)

 「詩の町・歌の村」(昭和初期の新聞記事)によれば、この「厚木音頭」は「先代吉村太平氏、先代古久屋仁藤佐兵衛氏、若松屋岩崎初太郎氏、高島亭平本綱五郎氏等の先覚人が苦心して作り上げ、厚木花街の勧進元〆の家〆治姐さんが研究重ねて曲付けしたと云ふ、30年の時代が付いたものなのだから、今日此頃慌てて作りだしたそんじょそこらの小唄音頭と少しわけが違ひますと、町では凄い鼻高だ」と紹介されている。
 明治時代に作られた「厚木音頭」に曲付した〆次を知る力弥さん(故人)は、〆次が清元の名取であったから、清元風の曲調になったのだろうと語っている。
「厚木音頭」製作に加わった人たちのうち、先代吉村太平は仲町(現厚木市厚木町)の鮮魚・乾物商。屋号は千歳屋。川柳の号を翠柳亭彳(すいりゅうていただずみ)といい、大正6年(1907)68歳で没した(『厚木の商人』)。
 また、先代古久屋仁藤佐兵衛、若松屋岩崎初太郎、高島亭平本綱五郎の3人は、いずれも相模川に沿った旧街道、矢倉沢往還に面して店を構える旅館の主人であった。古久屋は厚木神社前、若松屋は上町(現東町)、高島亭は仲町(現厚木町)にあったが、若松屋は大正2年(1903)5月、上町から「天王町相模川沿いに移転新築」している(「横浜貿易新報」)。
 古久屋、若松屋、高島亭の旅館は、明治42年(1909)に行われた横浜貿易新報主催相模川鮎漁会の指定旅館であり、厚木を「鮎の町」として売り出す町勢振興策を推進する中心的な役割をになっていたものと思われる。
 昭和恐慌が激化する昭和5年(1930)5月、「厚木音頭鑑賞の夕」が厚木のキネマ館に於いて開催された。
 この時のパンフレットによれば、主催は青年団長竹村松三郎と文化青年の集まりである世紀芸術連盟。同時上映の映画は「地上に愛あり(大井正夫、ミドリ雅子主演)」、「地獄谷の大剣客(嵐寛寿郎主演)の2本であった。「厚木音頭鑑賞の夕」は、厚木花柳界景気振興策の一環として企画されたものであろう。

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