2002.06.15(NO9)  米兵からのリクエスト

軽音楽部のメンバーと(宇都宮農林専門学校時代・中央が重昭)

 マッカーサーが厚木飛行場へ降り立ったのが昭和20年8月30日。その1、2ヶ月後には厚木の町にも大挙して米軍が進駐してきた。
敗戦の日まで抱いていた重昭のアメリカへの嫌悪感も、明るく人なつっこい米兵たちの立ち居振舞いを見るにつけ、次第に変化し親しみさえ湧いてきた。ことに小田急の車内での一件はいっそうアメリカを近しくさせた。
 厚木の街角で、ジープやトラックを囲むようにいるアメリカ兵を見ると、重昭はつかつかと歩み寄り片言の英語で話しかけた。米兵は親しく重昭と接すると、チューインガムやお菓子などを家まで運び込んでくれた。
 なぜかコンドームまで紛れ込んでいて、何も知らない重昭は新種の風船と勘違いし、それらを遠巻きに集まった人たちに分け与えて喜ばれた。
 翌年の初夏の晩のことだ。宇都宮から厚木に帰省中の重昭は、自宅の2階の窓を開け放ってハーモニカを吹いていた。するとそこへ巡回中のMP2人がやってきて重昭の演奏を聴くふうだった。
「トルコマーチ」「マリネラ」などMPが知っていそうな曲を続けざまに吹いた。
 階下から「何かお別れの曲を吹いてくれないか」とリクエストされる。「音楽に飢えているんだな」 遠く故国を離れたアメリカ兵たちの心情を思い、重昭は心をこめて「蛍の光」や「アロハ・オエ」を吹いた。
 翌日の晩にもMPは2人でやってきて、階下で「ピーッ」と指笛を鳴らす。ハーモニカの催促の合図だ。重昭はまた何曲か吹いた。あくる日MPがジープで重昭の家の前まで乗り付けると、「昨夜はありがとう」と言って砂糖やパイナップルの缶詰、チョコレートやビールをごっそりと車から降ろして行く。食料不足が深刻な時代になんともありがたい差し入れだった。
 昭和21年秋、宇都宮農林専門学校2年生の重昭は、前年かなわなかった文化祭でのハーモニカ演奏を実現することとなった。ベースや分散和音をいれて3曲吹くつもりがアンコールの拍手が鳴り止まず、結局8曲も吹くはめになった。重昭には誇らしくも嬉しい出来事だった。昨年、「ハーモニカはおもちゃだ」とさげすんだ先輩を見返してやりたい思いだった。
 この頃重昭は学校で音楽観賞班をつくって、月に2回ほど土曜の夜に音楽鑑賞会を開いた。電気蓄音機は人文の先生から、レコードは通いつめていた名曲喫茶のマスターから一晩貸してくれないかと頼んで借り、1、2曲を重昭の解説付きで聴いてもらう会だった。
 ドボルザークの「新世界」やショパンの「黒鍵のエチュード」、ベートーヴェンの「第5交響曲」や「第9交響曲」、ロッシーニの「セビリアの理髪師」や「ウィリアム・テル」などの名曲を取り上げた。
 重昭は、堀内敬三の「音楽鑑賞の基礎知識」などを参考に、解説する内容を一晩で一生懸命暗記した。そんな体験がクラシック音楽への造詣を深め、後の重昭の音楽活動にとって大いに糧となるのだった。

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