2002.04.01(NO6)  戦時下のハーモニカ

県立平塚農業学校の軍事教練(後方に見えるのは富士山)

戦時下のハーモニカ

 昭和18年1月に発売された「国民の音楽」2月号の巻頭に、当時44歳のハーモニカ奏者、宮田東峰は『決戦生活に徹せよ』という激しい一文を寄せる。
 <大東亜戦争下の国民生活の心構へは過去一年の間幾度となく繰返へされてゐる。世界戦史に輝かしい金字塔を打ち立てた昨年の皇軍の戦果は実に目醒ましかった。我々は今年も昨年以上の戦果は期待してゐるものの、百年を戦ひ抜く国民生活はそのすべても戦争の完遂に捧げてより多難の路を歩み続けねばならないことは大東亜戦争の開始と同時に我々の生活に約束されてゐる筈である。(中略)われわれは今になって『決意を新たに』などと生やさしいことをいってゐる時ではないのではあるまいか。
 今年こそ国家の興亡をかけて戦ひ抜かねばならない決戦の年ではあるまいか。(後略)> 戦争が長引くにつれて食料も物もいよいよ不足し、深刻化する中、そうした威勢のいい掛け声や『欲しがりません勝つまでは』といった標語も、ミッドウェー海戦を境に逆転しはじめた戦局の中で空しい響きを帯びはじめていた。
 その年弱冠15歳、県立平塚農業学校4年生の岩崎重昭は、米軍の上陸を仮定した軍事教練に毎日汗していた。
  文部省は戦時学徒体育訓練実施要綱を決め、全国の大学や高校などにこれを通牒、男子は戦技訓練が重点種目となっていたのだった。
2年前、川口章吾が来校しハーモニカを奏した講堂、重昭の所属するハーモニカ合奏団の練習場所でもあった講堂、そこがいまとなっては軍の食料備蓄倉庫と化し、天井に届くまでに鮭の缶詰が何段も何段も積まれたのだった。ピアノは端に追いやられたままただひっそりとそこにあった。そして講堂には鍵がかけられた。
 練習場所を失い、学校でハーモニカを吹くことができなくなるとハーモニカ合奏団もいつしか消滅していった。その分重昭は立派な兵隊になろうと、裸になって平塚市内を走ったり体を鍛えることに情熱を傾けた。
 小学校5年の時から柔道をやっていた重昭は、実戦的な“飛び込み払い腰”や“大外刈り”で相手を突き飛ばすほど強く、軍から配属された教官にも誉められた。砂場では、骨が平らになるまでやろうと、体が熱くなるほどに何回も何回もゲンコツで砂を叩き、あげくは厚い板を割ったりもした。
 正月明けに内務省と軍の情報局によってだされていた英米音楽の演奏禁止令によって、カフェやバーはもちろん、ラジオ番組からもジャズをはじめ、「峠のわが家」「オールド・ブラック・ジョー」「アロハ・オエ」など約1,000曲の音楽が消えていた。
 ラジオから流れて来るのは軍事ニュースや戦争を正当化する講座や講演、愛国詩の朗読などの合間の軍歌や軍国歌謡だった。まさに音楽にとっては貧しい時代だった。
 その年の10月21日には出陣学徒の壮行会が明治神宮外苑で行われ、若い命が戦地へと追いやられていった。当時学生で、『平凡』の編集長も務めた斎藤茂はその著『歌謡曲だよ! 人生は』のなかで、戦地への出発前日のことをこう書いている。
 <母がカバンの中からハーモニカを取り出した。いつか母に買ってもらった愛用のハーモニカだった。「お別れになにか吹いてくれないかね」と、母にせがまれた(中略)花摘む野辺に日は落ちて・・・と、胸の中で歌いながら、『誰か故郷を想わざる』を吹奏した。いつのまにか周囲に面会の人たちが集まって来て、口々に小さな声で歌いはじめた。共通の思いがこもった静かな大合唱となった。声を殺し、泣きながら歌っている人もいた。父も母も無言で聴いてくれた。母の頬に涙がひとすじ光っていた。
 面会時間が終わり、赤い夕日に向かってトボトボと、校門をあとに去って行く老いた両親のシルエットは、一枚の絵となって、今でも私の胸中に鮮烈に残っている。生前の父とはこれが最後の面会となった>
 悲しい時代のエピソードだ。

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