2003.03.01(NO22)  宮城道雄の琴の音

演奏する宮城道雄
 昭和26年はまもなく暮れようとしていた。
 月に10日は必ず家に帰って種苗店の手伝いをすると父に約束して新潟行きを許された重昭だったが、約束が守られたのは最初の1、2ヶ月だけで、指導する学校が増えるにつれて次第に帰省の足は遠のいた。
 それでも帰省のたびに父へは稼ぎのいくらかを渡し、何日かは家の仕事も懸命にやり、なんとか面目を保っていたのだった。
 重昭には仲村洋太郎から支払われる2万円に加えて10校近い学校からの謝礼などを含めると月に8、9万円の収入があった。当時としては破格の稼ぎだった。が、寄宿先の仲村宅が音楽家たちのサロンだったこともあって、そこに集う音楽家たちとの交流が幅を広げるにつれて接待費もかさむ一方だった。
  きょうはどこどこの演奏会に招待を受けたのでご祝儀、きょうは地元の交響楽団の指揮者が変わったので歓迎会のパーティーに……。お金に羽根が生えたように消えていく、収支とんとんのあやうい暮らしぶりではあった。
 たまの帰省の折、父へ渡すお金のないことを察した重昭の母は、「これくらい渡さないと父さんに申し開きができないだろう」と父に内緒で重昭にこっそり2万円をくれるのだった。
 重昭がなんとも複雑な面持ちでいると、母チカは「しっかりおやりよ」と優しい笑みを向けるのだった。思わず頭を掻いて庭を見遣ると、睦まじい2羽のジョウビタキがヒーィッとどこかへ飛びたった。
 新潟の冬は毎日のように雪で、一日として晴れた日などない。どっかりと積もるわけではないが2、3センチはいつも積もった。
 頬を刺すような北風の舞う陰鬱な冬空が重昭は嫌いだった。
 「嫌なとこだ。野球ができないどころか、表で遊ぶなんてとんでもない。これじゃハーモニカぐらいしかやることはない」
 変に納得して重昭はひとり苦笑した。
 退屈な冬に、しかし重昭にとっては衝撃ともいえる音を聴く機会もあった。
 仲村洋太郎たち尺八仲間の何かの集まりの折だったろうか、仲村宅の洋間でいまから宮城道雄の琴の演奏があるからと重昭も呼ばれた。
 8歳で失明し、琴の奏者としてまた「春の海」の作曲者としてすでに世界的な名声を得つつあった宮城道雄ではあったが、琴や尺八の世界に疎い重昭には、いったいこの盲目の人がどんな琴を奏するのかという程度の関心で、呼ばれるがままに6、7人の仲間に加えさせてもらった。
 仲村洋太郎が宮城道雄を紹介すると、琴の前に座した宮城はおもむろに弦を弾く。なんの曲かはわからなかったが古典とおぼしき筝曲をその強弱、一音一音の高低を繊細、緻密かつ推進力に満ちた演奏で弾いたのだった。重昭は鳥肌がたつような感興をおぼえた。「すばらしい!」心の中で何度もそう叫んだ。
 そんな具合に、仲村宅はさまざまな音楽家たちの拠点であり宿泊所でもあった。
 尺八奏者の福田蘭童や神如道といった人たちを知ることができたのも仲村洋太郎のおかげだった。
 新潟への赴任が、こんな風に思いがけない音楽的な出会いを育くむとは全く予期していないことだった。

.