2003.03.15(NO23)  緊張のテレビ初出演

新潟中央高校NHKテレビ出演
 朝鮮戦争の特需によって日本経済が復興への道のりを歩みはじめる頃、庶民の楽しみの主流はやはりラジオにあった。
 新潟の仲村宅で出会った福田蘭童が音楽を担当する連続ラジオドラマ「新諸国物語」が昭和27年4月1日に始まり、「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「オテナの塔」「黄金十字城」の5部が放送される。同年4月10日にはやはり連続ラジオドラマで「君の名は」の放送が開始された。週1回の放送は大人気で、放送が始まる時間になると人々はラジオの前に座り込みじっと聴き入る。そのせいで公衆浴場がカラになるともいわれるほどだった。
 そして翌昭和28年2月1日にはNHK東京放送局がテレビジョンの本放送を開始する。いよいよ日本でのテレビ時代の幕開けとなった。
 当初、放送時間は昼から夜9時までの一日9時間。ニュースや天気予報にまじってコントやクイズ、テレビ寄席やドラマも放送された。もちろんすべて生での放送だった。
 当時、大卒の初任給は8,000円くらい、テレビ受像機は20万円から30万円以上もして、庶民には高嶺の花だった。NHKが東京の7ヶ所で街頭テレビを公開したのをきっかけに、半年遅れて開局する日本テレビが各地に街頭テレビを設置。”眼で見るラジオだ“と連日黒山のような人だかりとなった。ことに白井義男が出るプロボクシングや力道山が出るプロレスは人気の的だった。
 「学校放送」という番組かニュースかは定かでないが、重昭が指導する新潟中央高校のハーモニカバンドがテレビに出演したのもその頃だった。
 新潟中央高校は明治32年の高等女学校令の公布にともない明治33年に誕生、大正時代になると深尾須磨子の詞に中田喜直の曲になる校歌も制定されて新潟県の女子教育の中心を担う学校として有名だった。
 女子ばかりのハーモニカバンドというのは珍しいということで、始まって間もないテレビへの出演となった。 十数名で編成されたハーモニカバンドの一行は不安とわくわくした思いの交錯する気持ちの高ぶりを感じながら学校から歩いて20分ほどのNHK新潟放送局を訪れた。
 簡素なつくりのさっぱりとしたスタジオで後ろには布幕が張られている。大型のスポットライトが2台、三脚に乗った箱のようなカメラが一台で、フロアには数名のスタッフが頭にヘッドフォンをつけて動き回る。物々しい雰囲気だ。
 「まもなく行きます!」フロアディレクターの声で生徒たちにいっそう緊張が高まる。演奏曲は「クシコス・ポスト」、編曲はもちろん重昭だ。いつもは重昭が指揮をとるのだが、女子だけのハーモニカバンドというのが売りなので重昭は袖に引っ込むことにした。
 「5.4.3.2.1」ディレクターの手が振り下ろされ生放送が始まる。緩急や強弱など、俄かに指揮を任された生徒には不慣れなところもある。重昭は袖から一瞬早めの指揮のしぐさをして真似させようとするのだった。
 生まれて初めてのテレビ出演はあっという間に終わった。テレビ局を出ると晴れわたった青空にふんわりと白い雲が浮かんでいる。生徒たちは一斉に空を仰ぐ。一人ひとりの表情にやっとやわらぎが戻ってくるのだった。

.