2003.02.01(NO21)  尺八コンチェルト「ドナウ河の漣」

夕刊新潟日報5周年記念で指揮する重昭
重昭を指導者として招聘した学生ハーモニカ連盟新潟支部長の仲村洋太郎の家は空襲を逃れ、檜をふんだんに使った木造2階建てのりっぱな家だった。
洋太郎は産婦人科医であるとともに気鋭の尺八奏者でもあった。それも古曲を演奏するだけの尺八奏者ではなく、従来の殻を破った新しい尺八音楽の領野に挑戦していた。洋楽が好きで「トロイメライ」や時には「水色のワルツ」なども演奏し、いずれはハーモニカバンドをバックに尺八ソロを吹いてみたいという夢を持つ進取の精神に富む人だった。そんなわけで、洋太郎宅は新潟の音楽家たちや尺八奏者などのいわばサロン的な場にもなっていた。
本業の「仲村医院」は終戦後ということもあり、出産のためだけではなく、堕胎手術をする女性や性病を患って来院する女性も多く、たいへんな繁盛ぶりだった。それ故、重昭の宿泊代は無料、食事も高峰三枝子に似た美しい奥さんの手料理に三度三度あずかり、その上月々2万円の報酬があった。音楽家としての洋太郎の生活ももちろん本業によって保証されていたのだった。
重昭の部屋としてあてがわれたのは自宅玄関の隣の部屋と応接間のような部屋の二間だった。
 ほとんど徹夜に近い格好で編曲などしていると、産気づいた妊婦がいるとみえて、夜中といえども騒然とすることもしょっちゅうだった。
「お湯を持ってこい」などという声が飛び交うとまもなく「オギャー、オギャー」と元気な赤ん坊の産声があたりの静寂を破る。そのたびに重昭は、「ああ、また生まれたな」とせわしく動き回る助産婦や安堵する母親の様子を想像してみるのだった。
 新潟の街は、6年前の昭和20年5月の米軍の爆撃機による新潟港への機雷投下や、艦載機による激しい空襲で多大な被害を被っていた。重昭が赴任した年は、前年の昭和25年の朝鮮特需によって幾分景気も上向きとなってはいたものの、駅前に6階建てのふたつのデパートと「イタリヤ軒」という空襲を逃れた洋食屋が目立つくらいで、あとはせいぜい2階建ての低い建物しかないさびれた風情が漂う街だった。歩いて15分ほどの新潟中央高校や新潟商業高校、新潟工業高校や女子工芸高校、それに白山高校などに、重昭は放課後、毎週1回通った。
 生徒たちにはハーモニカの吹き方の基本から指導した。夏休みに入ると体育館などで猛練習を重ね、各学校から選抜したおよそ30名の生徒たちでにわかに「新潟リードバンド」を編成した。時には仲村洋太郎宅の広い洋間に生徒を集めて特別指導もした。
 赴任して3ヶ月もしない8月26日には、新潟公会堂において「夕刊新潟日報」の創刊5周年を記念する新潟県下芸能人人気投票の当選発表会が催された。重昭の編曲、指揮、仲村洋太郎の尺八のソロで「尺八コンチェルト・ドナウ河の漣」を演奏し、好評を博した。
 重昭の指導ぶりは刮目すべきものがあった。各学校のハーモニカ合奏はめきめきと力をつけて冬に開催された全日本学生ハーモニカ連盟の主催するコンテストで高校部門の上位を独占した。

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