2002.09.15(NO14)  美空ひばりと同じ舞台に

美空ひばり
 終戦直後の横浜、野毛町は米軍に接収された伊勢佐木町とはうらはらに、闇市としても多くの人で賑わいをみせた。
 開業したばかりの横浜国際劇場も野毛にあった。そこを会場に昭和23年12月に行われた「オール横浜芸能コンクール」で横浜市長賞をもらった20歳の岩崎重昭は、反町や野毛山公園に立つ、ステージの上に屋根を乗せただけの粗末な掘立小屋の特設会場にも時々ハーモニカ演奏で出演した。
 街角に立つ小屋は娯楽に飢えた人たちの格好の社交場だった。重昭にとっても人前で自分の力を試せる小遣い稼ぎの場だった。
 芸能コンクールでの入賞がいわばそうした小屋での出演資格でもあり、1500円ほどのギャラがもらえたのだった。演奏を終えたあとは必ずといっていいほど、行きつけの野毛の食堂で、大きな車海老のてんぷらが3匹ものってる好物の天丼を食べて帰るのがきまりだった。
 戦後、重昭の父は買い求めたばかりの土地に、重昭の2歳年下の妹のしずえに店主を任せてパン屋を創めたのだったが、イースト菌は野毛まで出向かなければならなかった。その調達を重昭は買って出た。
 重昭にとってはこんな好都合なことはなかった。用足しよりもハーモニカを吹くことの方が主な目的だった。重昭は気兼ねせずに堂々と横浜に通うことが許されることになった。
 小屋の裏手から楽屋に回り名前を告げるとお茶を出されて歓待された。およそ15分2、3曲流行の歌に混ぜて「宵待草」や「帰れソレントへ」なども演奏した。吹き終わるとやんやの拍手が起きて重昭は安堵した。
 昭和28年の秋だったろうか。横浜の復興を目的にした開国100年祭が6月から催され、その一環として横浜国際劇場から出演依頼があり、再びそのステージに立つこととなった。当時の横浜国際は芸人にとってはあこがれの劇場で、長谷川一夫をはじめ一流の芸能人たちが出演していた。
 芸能コンクールのちょうど半年前の昭和23年5月、小唄勝太郎の前座歌手として、まだ小学5年生の美空ひばり(当時は美空和枝と称した)は岡晴夫の「港シャンソン」や笠置シズ子の「セコハン娘」を歌い、観客を大いに沸かせた。それもここ横浜国際が舞台だった。
 階段状の客席には絨毯も敷かれた立派なホールだった。重昭はハーモニカで、美空ひばりと同じこの晴れの舞台に上ったのだった。その時ひばりは既に映画「悲しき口笛」にも主演したり、「リンゴ追分」がヒットしたりの大スターといってよかった。サングラスをかけた用心棒風の男が3人、ひばりの両側をガードしていた。まだ少女の面影が残る16歳のひばりではあったが、颯爽と肩で風を切って歩く風だった。
 芸能コンクールでは横浜国際のやはり同じステージに立った5年前のことを思い、「すっげえなあ」と重昭は感嘆の眼差しでひばりの姿を追った。 
 出演料も重昭は6,000円か8,000円位だったがひばりはその10倍以上もの金額だった。

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