2002.10.01(NO15)  竹内暉と甲賀一宏

.

竹内暉と甲賀一宏
 ピィーッと汽笛が鳴り、黒煙を上げて蒸気機関車が寒川の駅舎を出発する。
 毎週日曜日、駅で待ち合わせて、1時間に1本ほどしかない相模線に乗る。竹内 暉や甲賀一宏たち10人ほどの小学生は厚木の重昭の家へとハーモニカを習いに向かうのだった。昭和23年の晩秋のことだ。
 竹内と甲賀は寒川小のハーモニカバンドに在籍していた。夏休みの週2、3回を重昭の指導を受けたことが縁で、甲賀は重昭の家にレッスンに通いはじめ、やがて竹内も通うことになったのだった。
 そもそも竹内は、終戦直後に子供4人を伴って朝鮮から引き上げて来た甲賀の母親に勧められてハーモニカを習う気になったのだった。甲賀の祖父の弟を頼りに農園の片隅にあるつつましい小屋に居を定めた甲賀とは隣り同士で親しかった。竹内は2年生、甲賀は5年生だった。
 宮山、倉見、門沢橋、社家と蒸気機関車は停車する。竹内は汽車賃のほかにはキャラメルを買うくらいの小遣いしかなく、客車の中が格好の遊び場だった。ボックス席の隣に続く、長椅子の席の上に並ぶ吊り革にぶら下がって思いっきり反動をつけ、反対側の席に飛び移ったりしては大騒ぎ。さすがに甲賀は上級生とあって、重昭から借りた譜面を写譜したり、時には練習に精出してハーモニカを吹いては他の乗客たちにほめられたりもした。30分も乗ってるうちに厚木駅に着く。そこから重昭の家までは相模川に架かる相模橋を渡る。歩いて20分ほどの距離だった。
 物資の乏しい当時、傘は番傘で、風の強い雨の日などは傘が破れるおそれもあってつぼめて歩く。そんな日は全身濡鼠で重昭の家にたどり着いた。すると重昭の母が優しく竹内たちの体を拭いてくれるのだった。トントンと重昭の家の2階に上がり、ハーモニカの練習がはじまる。ハーモニカは楽しかったがそれ以外にも重昭は面白いものを見せてくれたりした。
 重昭は空気銃が得意だった。朝方、鳩打ちに行ってきたと、腰に何羽かの鳥をぶら下げて帰ってくることもあったし、天井の蝿を打ち落として見せたり、マッチ棒を遠くに立ててそれを打って見せたりもした。鮎釣りも得意で見事な腕前は多くの人の知るところだった。重昭はいろんな分野で超人技ともいえる並外れた才能を持つ人だった。
 翌昭和24年、重昭の指導の甲斐あって竹内たち寒川小のハーモニカバンドは全日本学生ハーモニカ東日本の合奏部門で並み居る大編成のバンドを尻目に、6人だけの合奏で優勝した。
 竹内はコントラバス、甲賀は複音でファースト、曲は重昭が編曲した「みかんの花咲く丘」と「月の砂漠」をメドレーにした「童謡組曲」だった。教え子たちの快挙はことのほか嬉しかった。この二人の音楽的才能は後年花開き、甲賀は横浜交響楽団の常任指揮者として、竹内の長女直子はドイツ留学を経て、世界的なクロマチック奏者へと成長する。

.