2002.09.01(NO13)  父は「雲井劇団」の座長

幼少の頃の大矢博文
 すっかり収穫を終えたばかりの陸稲の切り株がまだなまなましく秋の光を浴びている。
 ゆるゆるとした登りがどこまでも続く半原への砂利道を、幼い博文を荷台に乗せ息せき切って自転車を漕ぐのは父、大矢一である。がっしりとした自転車の荷台には一座の衣装や鬘、小道具などを詰めた行李もくくりつけられている。
 大矢一は芸名を光二郎といい、このあたりではつとに名の知れた雲井劇団の座長で住み込みの座員二人を引き連れて半原村の秋祭りの興行に向かうのだった。娯楽の少ない戦前戦中の時代、彼らを待つ人々の顔を思い浮かべれば小一時間かかる道のりも苦にはならない。
 戦前から雲井劇団は主にそうした村祭りの余興や青年団に請われて、近隣の愛川や津久井、座間や大和、遠くは静岡まで出かけることもあった。出し物は長谷川伸の「瞼の母」や「月形半平太」などの他「国定忠治」などの時代物が中心だった。そうした出し物に使う刀は、半鐘や交通標識さえ供出を余儀なくされた時代故、もちろん金属製ではなかった。
 座員に器用な者がいて、太い竹を割り、細く削って刀に仕立てたのだった。
 夜遅くまで机に向かい、長谷川伸や菊池 寛の作品をもとに台本書きする父の姿を一人っ子の博文は見て育った。人を喜ばせることに情熱を傾ける父は幼い博文の脳裏にしっかりと焼きついていた。
 半原の興行を終えて帰宅の途につく頃は満点の星空。行きと違って帰りはゆるやかな下りで頬にあたる風も心地よい。明日は隣村の青年団の連中が稽古をつけるため大矢宅にやってくる。
 収入はそうした稽古や指導と興行で、一座を抱えての暮らしは決して容易でなかった。野菜などは自給できるくらいの畑はあったが、とうてい財を成せそうにもない。
 父、一は荷台にちょこなんと座る博文の将来を思って、「この子は決して役者などにはさせまい」と心に誓った。
 博文が9歳になった年に戦争は終わった。戦後は上演する芝居の台本が一々GHQの検閲が必要で、許可のハンコをもらうのが厄介だった。
 この頃の博文は学業の成績は優秀で、級長を務めることもあった。算数も国語も「優」ばかりなのにどういうわけか音楽は「良」だった。学芸会などでも歌を歌うよりは司会の方がよっぽど得意だった。
 その後、昭和23年の夏休みに師となる岩崎重昭と出会うまで音楽の世界とはまったく無縁だった。仲のいい同級生の後藤邦彦や2、3の仲間が大のハーモニカ好きだった。重昭がいとも気安く「明日からでもいいよ」と言ってくれなければ、ハーモニカとも無縁に過ぎたかも知れない。
 当時、手頃な楽器といえばハーモニカしかない時代ではあったが、子供たちのあこがれの的でもあった。
 毎週日曜日、午後から夕方にかけて重昭の家に通った。博文の担任の浜田先生や音楽の青木先生も応援してくれた。博文はみるみるハーモニカが上達し、仲間の世話焼きもよくやった。

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