2002.07.15(NO11)  栃木県新人音楽コンクールで優勝

昭和21年1月、ラジオで始まったのど自慢素人音楽会
 宇都宮女学校の音楽室で聴いた佐藤秀廊のハーモニカ。その音色はもちろんだが、椅子に座って吹くという演奏のスタイルが重昭の脳裏には強烈に焼き付いていた。
 独奏の時はこれまで立奏がごく自然だった重昭にとってそれはある意味では新鮮な発見でもあった。重昭は早速これを真似た。
 昭和22年の6月のことだ。栃木県の新人音楽コンクール器楽部門に重昭は佐藤秀廊編曲の「荒城の月変奏曲」で出場、初めて椅子に腰掛けて独奏したのだった。
 ハーモニカでの出場は十数名いて、本選には5、6名が残った。幸い重昭は本選へと勝ち進んだのだった。
 ハーモニカではひとり上手な者がいて、3本も持って「エスパニア・カーニ」を吹いた。そのテクニックは見事だった。ほとんどハーモニカ1本で吹いていた重昭は、「これは負ける」と思った。だが結果は重昭の優勝だった。「やったぞ」栃木県で一番になれたんだという感激がじわじわと込み上げてきた。
 後日、コンクールの各部門の入賞者には晴れの舞台が用意された。宇都宮のとある劇場が会場だった。
 賞状と硯箱一式が賞品というものだったがこのうえもなく嬉しかった。
 ステージを聴いてくれていた洋裁学校の人や他の人からも数件、演奏依頼が舞い込んだ。重昭にはいよいよハーモニカ奏者としての自覚が芽生えだした。
 ちょうど1年前の昭和21年1月にはNHKラジオから「のど自慢素人音楽会」の模様が放送され、昭和22年の7月には「のど自慢素人演芸会」と改称されて多くの人々の人気を博した。それに刺激されたように、戦時中の重苦しい空気からの解放感ともあいまって、日本の村々でのど自慢が流行りだしてもいた。
 重昭は自分の実力を試そうと、あちこちの村で行われるのど自慢大会にハーモニカで乗り込んだ。
 白米1升が100円から200円前後、重昭の大好物のあんみつが80円ほど、ラーメンが35円から60円、コーヒーが50円ほどの時代に、賞金は2,000円から5,000円ほどももらえた。甘党の重昭にとっては、あんみつが何杯も食べられるのがなにより嬉しいことだった。翌23年12月、横浜市と神奈川新聞社が主催する「第3回オール横浜芸能コンクール」に重昭はまたもハーモニカで挑んだ。
 演奏曲はやはり大のお気に入りの「荒城の月変奏曲」だった。
 このコンクールには外国の人たちも多数参加するほどの国際色豊かなものだった。審査員には堀内敬三の名もあった。まだデヴュー前の小学5年生、11歳の加藤和枝(後の美空ひばり)も歌謡部門で参加していた。
 その頃のひばりは笠置シズ子のものまねが得意で、近所でも評判の天才少女だった。重昭はここでも市長賞を獲得、後に横浜国際劇場で再び美空ひばりと同じステージに上がるのだった。

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