2002.07.01(NO10)  佐藤秀廊との出会い

ありし日の佐藤秀廊

 昭和22年のそれは春から夏にかけての温かなとある日の午後だった。宇都宮農林専門学校の音楽部の部長だった重昭の元へ、宇都宮女学校の音楽部から届いた一通の招待状をもとに、重吉は佐藤秀廊のハーモニカコンサートに出向いたのだった。
 佐藤秀廊といえば、昭和の初めに3年間滞欧し、ドイツやフランスなどで演奏活動をして喝采をあび、ハーモニカ奏者として確固とした地位を築いている、重昭にとっては雲の上のような人だった。以前ラジオで聴いて感動した「荒城の月変奏曲」を生で聴ける、そんな期待に重昭は胸を弾ませた。
 会場は ピアノ一台があるだけのこざっぱりした音楽室。そこに集うのは主催した音楽部の関係者と思われる30名ほどの女生徒たち。重昭は最前列に席をとって開演を待った。
  やがて佐藤秀廊が紹介されコンサートが始まる。50代を目前にした佐藤秀廊はゆっくりと椅子に腰をおろすと一点を見つめてハーモニカを咥える。シーンと静まり返った会場に澄みきったハーモニカの音色が響いた。やがて佐藤秀廊が紹介されコンサートが始まる。50代を目前にした佐藤秀廊はゆっくりと椅子に腰をおろすと一点を見つめてハーモニカを咥える。シーンと静まり返った会場に澄みきったハーモニカの音色が響いた。
 時にユーモアを交えて解説を加えながら、「お江戸子守歌」「シューベルトの子守歌」「宵待草」「帰れソレントへ」「さくらのワルツ」「青葉の笛幻想曲」など十数曲を演奏する。分散和音奏法、マンドリン奏法、ヴァイオリン奏法……、あらゆるテクニックを駆使してテクニックを感じさせない自然さ。
 「1本のハーモニカがこんなにも豊かな魂のこもった音楽を実現するのか。音楽の心を演奏するとはこういうことか」重昭は全身を耳にするように聴き入った。
 「荒城の月変奏曲」は荒れ果てた古城の上を煌煌と輝いている月を彷彿させる表現であったし、糸を引くように吹奏するピアニッシモはことに美しくうっとりとするほどだった。
 演奏会が終わると廊下に出て重昭は佐藤を待った。佐藤に一言二言きょうの感想を述べると、既に何回も会ったような気さくさで「旅館においで」と誘ってくれる。
 重昭は思わず狂喜して佐藤がその日宿泊する旅館へと同行した。旅館の一室で佐藤に請われて重昭が一曲演奏すると、佐藤はやさしい笑顔で「分散和音はうまいね。マンドリン奏法はもっとコロコロと吹くようにしたらいい。ヴァイオリン奏法はもう少しゆっくりと動かして! そんなに早く動かしちゃだめだ」とアドバイスをくれる。
 初めて会ったばかりの青二才の自分に、奏法の要点や注意すべきことなどを適確に教えてくれる。
 「なんてすばらしい先生なんだ」 重昭は感動にふるえた。  
 帰り際、佐藤は「これを持って行きなさい」とガリ版刷りの譜面を5、6枚くれた。『佐秀楽譜』にも収録されていない、まだ編曲されたばかりの「青葉の笛幻想曲」や「箱根の山によせて」などの貴重なハーモニカ譜だった。 
 重昭は嬉しさのあまり夢心地のままその日、寮への帰路についた。そして「この私も感動を人に与えられる演奏ができるようになりたい。がんばるぞ」と熱い思いに燃えるのだった。

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