中村雨紅が愛した夕焼けの里    市民かわら版編集長 山本耀暉 

 八王子陣馬街道の夕焼け
 中村雨紅が作詩した「夕焼け小焼け」は、雨紅の生誕地である八王子の恩方をイメージして作られたといわれている。この歌が初めて世に出たのは大正12年(1923)7月で、文化楽社から刊行された『文化楽譜・新しい童謡その1』に掲載されたものである。
 雨紅は当時、東京の本郷に住んでいた後に武蔵野音楽大学の校長になる福井直秋と知遇を得ていた。ある時、神田のピアノ輸入商が「ピアノを購入したお客に歌の本をプレゼントしたいので、新作の童謡曲本をつくりたい」と福井直秋に相談があった。それで福井は作詩者の1人として雨紅に何か書くようにすすめたのである。雨紅はこの時、「ほうほう螢」と「夕焼け小焼け」の2篇を福井に渡したという。「ほうほう螢」は田中敬一、「夕焼け小焼け」は草川信が曲をつけ、これに2、3の作品を加え、計5曲を1冊にまとめ文化楽社から出版されたのである。
 だが後になってから、この歌がいつ、どこで作詩されたのかは、雨紅自身の記憶も定かではなかったという。雨紅は昭和31年(1956)に刊行された『教育音楽』の中で、「夕焼け小焼けを作詩する頃」と題して次のような一文を書き残している。

 こうして世に出た「夕焼け小焼け」の作詩は、いつされたものかはっきりしません。福井先生から話があったその時新に作ったのか、既作のものを出したのか、急いでいたので、おそらく既作の中から選んだものと思われます。それは他の大正八年頃作詞したものの間に記帳しているからです。
 更にこの「夕焼け小焼け」がどこで、どんな場合に作詞されたかについては、三十五、六年も前の事でこれももうはっきり覚えがありません。それに歌詞の中に固有名詞も個性的なものも含んでいませんから。
 私は東京から故郷への往復に八王子から実家までへの凡四里をいつも徒歩(その頃バスなどの便はありません)でしたので、よく途中で日が暮れたものです。それに幼い頃から山国での、ああいう光景が心にしみ込んでいたのがたまたまこの往復のある時に、郷愁などの感傷も加わって、直接の原因になって作詞されたのではないかと思っています。
 昭和五年一月十五日、春秋社発行の『世界音楽全集第十一巻、日本童謡曲集』の中で作曲者草川信先生自身こう書いています。「よく私は少年の日を過ごした故郷にでも、立ち帰ったような気持ちで曲を書くことがありますが、この曲等が正にそれです。中村さんのこの歌詞への作曲をします時、善光寺や阿弥陀堂の鐘が耳の底にかすかに鳴って居りました。山々の頂が夕映えで美しく光って居りました。山国の夕暮は静かにしかも美しくありました云々」と。
 <中略>
 要するに私が「夕焼け小焼け」を作詞したのは、二十二才の頃で、以上のような社会情勢と身辺環境と私自身内在していた心情の集成であったと思います。(『教育音楽』昭和31年8月号・第11巻第8号)

 この文章から推測すると、雨紅は大正8年(1919)の夏休み(当時、雨紅は東京第三日暮里小学校の教師をしていた)恩方の生家に帰省するとき、八王子から実家まで続く陣馬街道(東京オリンピックまでは「案下道」と呼ばれていた)の16キロの道をてくてくと歩いた。そのとき暮れ6つを知らせる寺の鐘の音を聞き、西の小仏や陣馬の夕焼けの山々へ帰る烏の群れをいつも目にしていた。大人になった雨紅はそれに哀歓を感じ、幼いころの郷愁も加わってこの詩を作ったのである。

 夕焼けの鐘の本家争い
 このことから夕焼けの里のロケーションが陣馬街道であったことはもはや疑う余地がない。それでは雨紅が聞いた寺の鐘はどこのお寺であったのだろうか。
 陣馬街道沿いは寺社が多いところである。昭和40年代に、「夕焼けの鐘はうちの寺」と八王子の3つの寺が本家争いをしてマスコミが派手にかき立てたことがあった。作曲者・草川信の生誕の地である長野市にも善光寺と往生寺が同様な本家争いをして話題になった。
 この3寺というのは下恩方の「観栖寺」、八王子の「室生寺」、上恩方の「興慶寺」で、観栖寺と室生寺には「夕焼け小焼け」の碑が建立されており、興慶寺も夕焼けの梵鐘があって、それぞれに雨紅筆の歌が刻まれている。
 3寺とも「夕焼け小焼け」のなかで、雨紅がイメージした鐘の音は、絶対にわが寺の撞いた鐘であると主張し、一歩も譲らなかったという。ちなみに観栖寺の「夕焼け小焼け」の碑の裏面には雨紅筆による「ふる里はみな懐かしく温かし 今宵も聞かむ夕焼けの鐘」、興慶寺の「夕焼け」の梵鐘には「興慶寺ここの見てらの鐘の音を 今日も安らに聞くぞ嬉しき」のうたが刻まれている。
 大和市に住む随筆家の依田信夫さんは、平成13年(2001)に出版した『物語夕焼け小焼け』(市民かわら版社)の中で、「どの寺も満を持して郷土の詩人中村雨紅を立て、雨紅を慕い、雨紅の創った童謡に帰依? すること大であった。一撞きの「ゴーン」は青年雨紅の胸に去来した夕焼けの鐘である。この音こそがわが寺の福音でありたいと希う、坊主丸儲けならぬ我田引水の弁は、とみに檀家の少なくなりつつあるお寺のお布施にもひびくことであった」と記述している。
 後に雨紅は生来のトボケた発言をして、この本家争いに決着をつけた。
 「遠い昔のことで、あの鐘の音はどこの鐘楼から聞こえてきたか忘れてしまったよ。みんなの心の中にある夕焼けの鐘でいいんじゃないかな。草川先生は長野善光寺さんの鐘と言ったが、私は郷里の全部のお寺の鐘であったと思うが、いけないかね」(同前掲書)。
 このおトボケの談に、依田さんは「勝負あった。善良な雨紅のトボケっぷりは、どの寺にも和やかで、平等な音の所有権をもたらしたのであった」と書いている。

 
 厚木市七沢「観音谷戸の夕焼け」
 八王子の「夕焼けの鐘論争」はさておき、厚木を第2の故郷として移り住んだ雨紅は、この厚木でも夕焼けの里を探し求めて歩いたという。娘の緑(みどり)さんも雨紅の教え子に「父は厚木に来て、ずっと夕焼けの里を探してあちこち歩かれたようです」と話している。
 雨紅の教え子で七沢で旅館を営む玉川館の山本茂子さんは、『夕焼け小焼け―中村雨紅の足跡』(厚木市立図書館叢書・平成2年)の中で、次のように述べている。

 終戦後、すっかり疎遠になった先生に、偶然お会いする機会に恵まれて、とても嬉しく感激しました。
「高井先生、しばらくです」
「おお君か」
「先生どうしてここへ」とたずねますと、
「七沢へはときどき来ているよ。七沢はいい所だ。ここの夕焼けはすばらしいので、ふらっと眺めにきている」
 そんな再会以来、七沢へおいでの時は私どもへ、「また来たよ」とお立ち寄り下さいました。

 雨紅は玉川館を訪れるたびに、山本夫妻と雑談を交わしたが、ある時、故郷の恩方と八王子の七沢が、環境と景色がとても似ているし、夕映えがきれいなので大好きだが、長野や八王子には「夕焼け小焼け」の碑はあるが、第2の故郷にはないと洩らされたという。
 この話がきっかけとなり、玉川館では昭和37(1962)年9月、雨紅の了解を得て「夕焼け小焼けの歌碑」を建立した。碑は高さ1・75メートル、幅1メートルの月光石で出来ており、台石は白の花崗岩。碑面には夕焼けの歌詩と上部に烏、下部には松と子どもの絵が刻まれている。いずれも雨紅の揮毫だが、烏の絵は当時、玉川中学校の教頭だった杉山勇さん(洋画家)が描いたものである。その歌碑の裏面には「雨紅先生はこの地をこよなく愛される」と刻まれた。
 山本さんは先の『夕焼け小焼け―中村雨紅の足跡』の中でも、雨紅が県立病院に入院していた時、面会謝絶の中で「山本さんなら入ってもらってもいい」と言われたので雨紅を見舞ったが、そのとき雨紅が「七沢の夕焼けは今でもきれいだろうね。もう見られそうにない」と低い声で仰った言葉が忘れられないという。死の淵にいたっても七沢の夕焼けは、雨紅の脳裏から離れることがなかったのである。
 平成元年、私は市民かわら版に連載していた『さがみのうた』を取材するため玉川館を訪れたが、現在4代目を次ぐ館主の山本淳一さんは「七沢の観音谷戸が八王子の恩方に似ていて、雨紅先生はたいそう気に入っておられました。ときどき自宅から電話があるんですよ。「いま夕焼けがきれいだろうって。車でお迎えに行ったこともたびたびありました。恩方の夕焼けをこの七沢の地に見ておられたのでしょうね」と話してくれた。(『相模のうた―厚木愛甲編』市民かわら版社)。
 厚木で雨紅がこよなく愛した夕焼けの里は七沢であるというのは疑う余地がない。雨紅は七沢の地に来て、故郷の恩方を偲び、心に安らぎを覚え、そして七沢の美しい夕焼けに癒されたのであった。

 夕焼けの3点セット
 「夕焼け小焼け」の詩には、山里を背景にお寺と鐘と烏、そして子どもが登場してくる。

  夕焼け小焼けで日がくれて 山のお寺の鐘がなる お手々つないで皆帰ろ 烏と一緒に帰りましょう
  子どもが帰った後からは 円い大きなお月さま 小鳥が夢を見る頃は 空にはキラキラ金の星

 このフレーズは極めて一般的で表象的である。ある意味では夕焼けのありふれた情景を示すフレーズを並べたものにすぎない。ところがよく読んでみると図式的ではないことに気がつく。すなわち思惟を伴っていて概念的なのである。しかも汚れがまったく感じられない。穏やかで素朴で純真無垢なのである。いわば澄みきっているとでもいおうか。
 夕焼けの後には暗い闇の世界が訪れるはずなのに、この詩には迫り来る闇の不安と怖ろしさは微塵も感じられない。そこには自然と生命が共生した安心と平和が無限のように広がるのである。そうでなければ、円い大きなお月さまやキラキラと輝く金の星などは出てこないだろう。雨紅はこの単純なフレーズを絵はがきのように組み合わせることによって詩の完成度を高めたのである。
 雨紅が愛した七沢の夕焼けの里もこのフレーズを体現しているのであろうか。七沢温泉郷の奥には17世紀末に建立された天台宗の「観音寺」がある。その反対側の七沢城址北側の台地には臨済宗の「徳雲寺」があり、そして七沢の集落の最も奥まったところには曹洞宗の「広沢寺」がある。私はその三寺を訪ねて梵鐘があるかを尋ねてみた。すると3寺とも梵鐘がなかったのである。古刹といわれる広沢寺は戦前までは梵鐘があったが、戦時中、梵鐘を供出してからは再興されることがなかったという。
 すると、雨紅が愛した七沢の夕焼けの里はどういうことになるのであろうか。雨紅は終生七沢を訪れたが、この地でお寺の鐘の音を聞くことはなかったということになる。七沢は夕焼けがとてもきれいだが、「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘がなる」という詩のイメージを七沢の地で再現することは不可能だったのである。
 雨紅は夕焼けの景色だけを追い求めていたのであろうか。そうではあるまい。私は雨紅は厚木でも「夕焼け小焼け」の詩にうたわれた夕焼けの里を構成する山里とお寺、そして鐘を追い求めていたのではないかと思う。
 雨紅は昭和43年(1968)、「鐘の音」と題して次のような随筆を残している。

 私はお寺と言えば何らの伝説のある外は、必ず梵鐘がない寺院はないものであると思っていた。そして人間は生まれると同時に知ると知らざるとに拘わらず梵鐘の音を耳にしたものであり、更に長ずるにしたがって、朝夕聞くその鐘の音を意識するようになる。山や野に又川に遊びほうける子供達、親子兄弟共にそれぞれの職場において家業の手伝いに励み、あるいは工場において働く者の心に響く鐘の音は、それぞれにちがった感じを与えることであろうが、とにかく鐘の音は、私共にとっては一日を命の中に暮した喜びと安心を与えてくれる何とも、言いようのない有り難さをしみじみと響かせてくれるものです。子供は子供なりに、大人は大人なりに、老人は老人なりに過去から現在へ更に未来へと鐘の音は一筋に、それからそれへとつながって、苦しかった時の事も、懐かしい思い出の一こまとしてくれるほんとに温い、目には見えない一生の、はたまた人生のフィルムである。(『大法論』昭和43年12月号)

 これから推察すると、夕焼けとお寺の鐘は、雨紅にとっては切っても切り離せないものだということがわかる。このお寺と鐘の音と烏という3点セットは、どう考えても夕焼け小焼けの必要条件である。これに子どもを加えれば4点セットになるのであるが、子どもは夕焼けを構成する素材というよりは、情景を受け止める側であるため、この際外して考えるべきだろう。
 この3点セットをイメージするのは、直接的には詩が生まれた八王子の陣馬街道の山里であるが、私は陣馬街道を訪れたことがないので雨紅が目にした夕焼けを具体的にイメージすることは出来ない。だが雨紅の詩をイメージするピッタリの絵がある。
 先にも紹介したが、雨紅研究家としても知られる依田信夫さんは、研究の成果を幾冊もの書物にまとめているが、いつも巻頭を飾るのは圧巻ともいえる夕焼け小焼けの画像である。作者は依田さんの朋友で長野県の高遠にお住まいの画家・賀川瀛介(かがわえいすけ)さんだ。私はこの賀川さんの夕焼けの絵が好きで、雨紅の詩に見事にマッチした傑作だと思っている。
 賀川さんはいくつかの夕焼けの絵を上梓しているが、『物語夕焼け小焼け』のカバー絵を飾ったのが、遠く西の空があかね色に染まる山並みを背景に、山里の小高い丘にお寺の鐘が鎮座、手前には畑が広がり、目の前を小川がゆるいカーブを描きながら流れている。その小川に沿って道が続き、夕暮れの鐘の音を聞いた着物姿の子ども達が遊びから帰ってくるという構図だ。もちろん遠くの山並みには烏が飛んでいる。
 『中村雨紅青春譜』(日信企画)に収録されている挿画も同様な構図で、あかね色の山並みを背景に田んぼと小川、村道を配置した日本の伝統的な里山風景を表現している。小川に沿って往来する道をリヤカーを曳く農夫と、子連れの母親が夕暮れの家路を急ぐ。この絵にも遠くの山の峰に烏が飛んでいた。この2つの絵は牧歌的でお伽童話にでも出てくるような民話の世界を彷彿させ、見る人々の心を和ませてくれる。
 この絵には画家としての賀川さんの感性が見事に表現されている。本は雨紅が亡くなった後に刊行されたもので、雨紅と賀川さんは一度の面識もないから、雨紅がイメージする夕焼けの光景を賀川さんが雨紅から直接聞いたわけではなく、賀川さんが陣馬街道を歩いたわけでもない。いわば賀川さんが「夕焼け小焼け」の詩からイメージしたスケッチなのである。

 中村雨紅の遺言
 平成20年(2010)4月15日、厚木市温水に住む和田美代子さん(80)という方から電話をいただいた。「今日の市民かわら版に出ている中村雨紅先生の記事を読んで、先生が懐かしくなって電話しました」というのである。その記事とは郷土史家の飯田孝さんにお願いして書いていただいている『相模野文学めぐり』で、4月15日付けで発行した紙面にはNO54として、『中村雨紅詩謡集』が紹介されている。和田さんは雨紅の教え子で、昭和17年に県立東高校に入学、戦時中に雨紅の教えを受け、終戦時に卒業されたという。話をうかがっているうちに、美代子さんは足立原茂徳市長の時に、教育長をつとめた和田泰比古さんの奥様であることが分かった。
 和田さんは「先生の遺言のように思うので、どうしても話しておきたいことがあるんです」と言って次のような話をしてくれた。

 まだ雨紅先生がお元気な時でしたが、昭和四十六年の夏、友達と信州へ旅行に行き、善光寺を訪ねました。長野県は雨紅先生や作曲家の草川信さんの碑がいくつもありますが、私たちは善光寺の裏山の往生寺にある「夕焼けの碑」を見に行ったんです。その時、寺の住職にお会いしまして、私たちが雨紅先生の教え子だと言いますと、「近いうちに夕焼けのうたの展覧会を開催するので、その時は先生にもお世話になりますから、ぜひこのことを伝えください」と言付けを頼まれました。
 厚木に帰ってきた九月下旬頃、まだ本厚木駅が高架になっていない時です。今の東口のところに踏切があって、その信号のところで偶然、先生のお嬢さんの緑(みどり)さんにお会いしました。みどりさんにそのことを話すと、ぜひ父に会っていってくださいといわれるので、誘われるままに雨紅先生の家にお邪魔しました。
 先生はにこにことご機嫌よくこの話を聞いていましたが、私が腰を上げようとすると「もう帰るの、もっとゆっくりしていってよ」と何度も仰るものですから、ついつい長居をしてしまい、一時間半ほどでしょうか、いろいろな話をしましたが、その話の中で先生は「厚木の夕焼けの里は、加藤さん(旧姓)のお墓がある本禅寺のところ、あそこが夕焼けの里だよ」と仰られたのです。
 私の実家は飯山の加藤で、父は朝実(ともちか)と言いますが、雨紅先生は父の墓のある本禅寺に行かれて、お墓参りもしてきたと言われました。あとでうかがったことですが、本禅寺の奥さまも雨紅先生がお見えになられ、父の墓参りをしていかれたと仰られました。
 私は先生が愛した夕焼けの里は七沢が定説になっているので、余計なことを言って関係者にご迷惑をかけてはと思い、この話を誰にもしないできました。
 ちょうどこの年の春、先生は『中村雨紅詩謡集』を出版され、私も一冊買い求めていましたので、お邪魔した時、先生にサインをお願いしましたら「してあげるから持っておいで」というので、後日、お宅にうかがいました。その時、先生はすでに体調を崩されて県立病院に入院されておりました。直接サインをいただけなかったのですが、奥様が「家にサインした本があるので、それと取り替えてあげましょう」といって取り替えてくださいました。それからしばらくして先生が亡くなられたのです。
 今日、市民かわら版に出ている雨紅先生の記事と写真を拝見して、久しぶりに先生にお会いしたような気がしました。それで、この話を思い出して、これはどうしても言っておかなければならないと思って電話をしたのです。
 緑さんも私に、「父は厚木に来て、ずっと夕焼けの里を捜してあちこち歩かれたようです」と話してくれたのを覚えています。私はこの話は先生が亡くなる少し前に直接お聞きしたものですから、遺言のように思ってずっと胸にしまい込んでいました。(和田美代子談)

 実はあとで気がついたのであるが、和田美代子さんは雨紅が「厚木の夕焼けの里は本禅寺のところだよ」と言ったことを、平成12年(2000)発行の『阿夫利嶺にこだまして―厚木高女学徒勤労動員の記』(「青葉会」発行)に書いていることが分かった。私はその本を所持していたが、出版された時には全ページに目を通す時間がなかったので、ところどころを拾い読みして記事にした記憶がある。和田さんの電話で私はこの本のことを思い出し、もしや何かヒントがあるかも知れぬと思って書棚の奥にしまいこんであった本を引っ張り出して読み返したのであった。和田さんの話は「今、ふたたび恩師と」の項目に収録されていた。
 和田さんはその時の話を次のように書いている。

 現在の緑ヶ丘は大きな町になりましたが、当時はまだ家が一軒もなく、「尼寺原」といって一面の畑が続いていた頃に、先生は厚木高校の前の道をどんどん大山の方に向かって歩いていった。すると坂があってその坂を下るとその先にお寺があったので寄ってみたら、加藤さんのお墓(父)があったのでお参りしてきた。「あそこらが厚木の夕焼けの里だよ」と教えてくれたのです。

 このお寺が本禅寺である。本禅寺は厚木市の飯山にある日蓮宗のお寺で、寛永18年(1641)に建立された古いお寺である。昭和35年に改修された外回りの柱部分のほかは、創建当時の姿をよく残している。近世初期の日蓮宗の本堂は少なく、平成7年(1995)2月14日、神奈川県指定重要文化財に指定された。

 厚木市の本禅寺から見た夕焼けの里
 本禅寺は現在の小鮎公民館から西に下る丘陵の中ほどに位置し、真下に恩曽川をのぞむ。上流は上古沢の里山に連なっている。そして夕日が沈む背景の山並みは大山を左手に見る丹沢だ。雨紅はそこに夕日が沈む光景を見て、ここが厚木の夕焼けの里だと思われたのではないだろうか。
 本禅寺を訪れたことのない私は、和田さんが言われた話をイメージとして描くには至らなかった。それで日曜日の午前、本禅寺を訪ねてみたのである。私が訪れた時、住職は不在だったが、本堂の外観を見学しているとき、たまたま44世住職の齋藤静夫さんが法要から帰ってこられたので、お話をうかがってみた。
 「こちらのお寺には鐘楼がありますか」
 開口一番お聞きしたのはこの質問であった。
 「いいえ、うちには鐘楼はありません。創建以来、鐘楼があったとは聞いておりません」
 先ほど境内を見て廻ったとき、鐘楼がないのに気がついていたが、私は自分が描いていた思いが一瞬崩れかけるのを感じ、中村雨紅が生前、この寺を尋ねたことがあり、加藤さんのお墓参りをしたことなどを話すと、住職はここに来たのが8年ほど前で、雨紅が訪れたという話をご存じなかったが、お寺の鐘については「飯山観音や近くの本照寺の鐘が鳴ると、ここまで十分に聞こえてきます。私が小さいときからそうでした」という話をしてくれた。
 だとするなら、雨紅がこの本禅寺を「夕焼けの里」だと思っても何ら不思議ではない。私はお寺のすぐ上にある厚木中央霊園にまで足を伸ばして、夕焼けの里を再現してみたが、そこから見る光景はすばらしいロケーションであることがわかった。
 西空の左手奥に大山をのぞむ丹沢、その前に里山が連なり低い階段状に畑が広がる。目の前を流れるのは恩曽川だ。右手には川をはさんで本禅寺がたたずみ、恩曽川に沿って山道がゆるやかに続く。夕方の暮れ六つを知らせるお寺の鐘がゴーンと響き、遠く山陵に烏の姿が目に入ってくると、もうこれはまさに夕焼け小焼けの世界である。私はそのとき、賀川さんが描く夕焼けの里を思い浮かべた。
 本禅寺を後にすると、しばらくして携帯電話が鳴った。電話の主は齋藤住職であった。住職は雨紅が会ったときの本禅寺の内儀さんが実は自分の二代前の住職夫人で、現在82歳だがまだ元気でいるので、私が尋ねたことを聞いてくれたというのである。話によると、「確かに雨紅さんは本禅寺に来て、加藤さんのお墓参りをして帰られた」ということであった。そのとき、雨紅はこの地が夕焼けの里だと話したかどうかは不明であるが、こうした話からも雨紅が本禅寺から見る山里を夕焼けの里だと思ったことはまず間違いないだろう。私は厚木の七沢と飯山の2カ所に、雨紅が愛した夕焼けの里があることをとても嬉しく思った。

 相模野はそのものが夕焼け小焼けの世界
 私は七沢にある3寺には梵鐘がないので、観音谷戸ではお寺の鐘の音を聞くことができないと書いたが、飯山の本禅寺を訪れてから、その判断は間違っていたのではないかと思うようになった。もしかしたら七沢の観音谷戸でも日向薬師(伊勢原市)の鐘の音が聞こえるかも知れないのである。いや梵鐘の「ゴーン」という音は恐らく十里四方にも届く響きがある。日向薬師や飯山観音の鐘の音が聞こえるのであれば、七沢も飯山も3点セットが揃った夕焼けの里となる。要するに3点セットが揃えば、どこでも雨紅がうたった夕焼けの里を体験できるのである。
 作家の龍膽寺雄(りゅうたんじゆう)さんが、『中村雨紅お伽童話第二集』(日信企画)の序文で、「相模野というのは、そのものが夕焼け小焼けの世界なのである」として、次のような一文を残している。

 相模野の名刹には、南に道了尊、丹沢山麓に日向薬師、関東三大不動尊の一つといわれる大山不動尊、広沢寺、飯山観音などがある。朝夕梵鐘の音が流れるのに事欠かない。これらの名刹は樹立ちの茂みが奥深いから、烏もたくさん住み着いている。夕焼け小焼けは、昔のままである。まさに、昔も今も変わらぬ中村雨紅さんの世界である。
 厚木市はもとより、私の住む大和市なども市街地の今はマンション集団住宅の高層な建築が建ち並んで、昔とは面影が全く変わってしまったが、それでも住宅密集地からちょっと離れると、まだ昔の相模野の面影が残っていて、夕焼け小焼けの世界に身を置くことが出来る。相模野というのは、そのものが夕焼け小焼けの世界なのである。

 「夕焼け小焼け」を作曲した草川信は、息子の誠に「あの歌はわしの奇跡の一つだ。いつ生まれたかとも疑う。口笛でも吹くようにということかな」といい、「あれは自然に生まれて自然に歌われた」(草川誠「父にふれて」信濃教育1284号)と語っている。作曲時に善光寺や阿弥陀堂を意識したと述べた草川信も、晩年はこう述懐しているのである。
 児童文学者の高橋忠治さんは童謡「夕焼け小焼け」の舞台はあの寺この寺というのではなく、普遍的な日本人の心の原風景にあるのではなかろうか」と指摘している(『物語り夕焼け小焼け』市民かわら版社)

 中村雨紅が作詩した「夕焼け小焼け」は八王子の陣馬街道をモデルとして生まれたが、作品ができあがると1人歩きをして極めて概念的な作品になった。そして自然と生命が共生した普遍的イメージとしての夕焼け小焼けができあがったのである。そこには『教育音楽』の中で雨紅自身が言っているように現実的、具体的な夕焼けの里は存在しない。むしろ歌を聞いたひとびとが、夕焼けの里を自由にイメージする上で、大きな影響を与えたというべきなのである。
 
 「故郷」と「夕焼け小焼け」
 「夕焼け小焼け」が生まれた少し前の大正3年(1914)、高野辰之(作詞家・国文学者・東京音楽学校教授)の作詞、岡野貞一(作曲家・東京音楽学校教授)の作曲で国民的歌謡ともいわれる文部省唱歌「故郷(ふるさと)」が生まれた。私はこの「故郷」と「夕焼け小焼け」に共通の思いを見る。

  兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
  如何にいます父母 恙なきや友がき 雨に風につけても 想いいづる故郷
  こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水はきよき故郷

 「故郷」は高野辰之が幼少時代を過ごした長野県北部の豊田村の風景で、東京に出てきた高野が望郷の思いを描写したものと伝えられている。ちなみに兎を追った山は大平山、小鮒を釣った川は斑川(まだらがわ)といわれているが、詩の中に具体的な山や川が刻まれているわけではない。日本人はこの詩に「安心立命」を求め、懐かしさやほろ苦さ、もの悲しさ、やさしさを感じ心を癒すのである。それはなぜだろうか。
 この曲が出てきた背景には、出郷=都市化という現象がある。たとえば東京という都会の場合、地方から出てきた出郷者1世には故郷があるが、2世、3世となると父母や祖父母のふるさとは、自分自身のふるさとではなくなる。世代を越えることによって「原郷」は変化し、喪失し、現代では「幻郷」となってしまった。従って、故郷イメージは、何かを媒介にして合成されなければならなくなったのである。
 それが「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、夢は今もめぐりて、忘れがたきふるさと」のフレーズである。ここには日本の原風景(内地的ふるさと)があり、この歌を聴き歌うと、出郷者はふるさとを想い出し、生まれ故郷の情景を想い浮かべ、懐かしみ涙したのである。これはある意味では仮構されたイメージとしての「ふるさと」であり、それは現実的、具体的な像を持ち得ないことで、近代日本の「ふるさと」たりえたのである。いわば近代日本のひとびとは「故郷という仮構の外套」にくるまれて心を癒したと言ってもよい。しかもこの「故郷」が「日本そのもの」となったところにこの詩のすぐれた非凡さがある。
 高野の詩は、われわれに日本人の「ふるさと感」とはどういうものであろうかということをしみじみと考えさせてくれる。ふるさとには山があり、川があり、そして母がいる。これが日本人がイメージするふるさとの姿である。この母とは現実の母をさすのではなく(もちろん自分を生んでくれた母であってもよいのだが)自分が生まれた世界で、無条件に抱擁し抱きしめてくれる「安心立命」の世界である。われわれは高野の「故郷」から、無条件にそれを感じ取ることができるのである。

 私は雨紅の「夕焼け小焼け」もまったく同様ではないかと思っている。「夕焼け小焼け」を歌うひとびとがイメージする夕焼けの里は、普遍的な日本人の心の原風景である。それは現実的、具体的な像を持ち得ないことで、ひとびとの心に純化したイメージの「夕焼けの里」を刻むことに成功した。そこには穏やかで素朴、安心と平和の世界が無限に広がる。まさに一点の曇りもない絵はがきの世界といえよう。童謡「夕焼け小焼け」が不朽の名作として君臨する理由はここにある。
                                               (2010年4月18日)

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