厚木の大名 <NO1>

       近世の夜明け      飯田 孝

厚木村溝呂木家に伝来する徳川家康画像<溝呂木孫一氏蔵>(『厚木市史』近世資料編(2)村落1)
 天正18年(1590)7月9日、小田原北条氏は長い篭城戦のあと、豊臣秀吉の軍門に降った。小田原落城と北条氏の滅亡、これは関東における戦国時代の終わりを告げるとともに、新しい近世社会のはじまりを意味する象徴的なできごとであった。
 8月1日、徳川家康は江戸へ入城、関東領国経営の第一歩をしるし、翌天正19年5月には、所領を与えた旗本達へ一斉に宛行状(あてがいじょう。所領を給与する文書)を発行した。
 中世で武家の府として栄えた鎌倉、戦国時代には関東の覇者北条氏が本拠とした小田原、相模国を拠点とした中世、戦国の歴史は終り、家康の江戸入城によって、武蔵国を中心とする新たな時代\近世を迎えるのである。
 関東を領国とした家康にとって、旧領五カ国である三河・遠江・駿河・甲斐・信濃から、家臣とその家族の関東への移住は急務であった。
 家康の新領国となったのは、武蔵・相模・上野・下野の一部計七か国であり、その知行割の原則は次のようであった(『神奈川県史』通史編2近世(1)) 。
 第一に江戸を中心としてその付近に徳川氏の蔵人地\直轄領を集中する。第二に家臣団のうち中小知行取り\下級家臣団を江戸周辺、江戸からほぼ一夜泊まりの範囲に配し、その外郭に大知行取りを配置した。ここでいう蔵人地\直轄領はのちの幕領で、また中小知行取りは旗本、大知行取りは一万石以上の大名をいう。
 右の知行割りは、旧領五か国時代の所領配置を関東へ適用したのであり、戦時における軍事体制であると共に、近世を通じ政治ならびに経済上の基本的な領国体制である。この後関東は、所領の錯綜と特に近世後期に至り海防上から海岸付きの村々の所領構成の変化はあるが、以上述べた知行割りの原則は近世を通じて続いた。
 近世期の厚木市域は36の村々で構成されていた。近世初期の市域村落は直轄領が多く、これに旗本領が混在していた。徳川家康は鷹狩の時厚木溝呂木家に立ち寄り、しばし休息したと伝えている(『新編相模国風土記稿』)。
 近世期における「大名(だいみょう)」は、一万石以上を領有し、将軍に対して直接に奉公の義務を負う者をいう。徳川氏は慶長5年(1600)関ヶ原の戦以降、三代将軍家光の時代までしきりに改易・厳封・移封を行い、大名領地は安定しなかったが、近世中期以降は次第に安定し、ほぼ260〜270家となった。大名は徳川将軍家への近親度によって、親藩・譜代・外様に分けられ、領主の格式としては国主・准国主・城主・城主格・無城に分けられていたが、最も多いのは五万石以上の譜代大名であった(『日本史辞典』)。
 大名は家臣団の統制、領国支配に独立の権限を与えられていた一方、幕府が定めた武家諸法度などによる統制を受け、参勤交代、軍役その他の義務を負担した。
 明治維新後、大名のほとんどは、身分的特権を有する華族となるが、華族制度は昭和22年(1947)制定の日本国憲法によっては廃止されるのである。
 では厚木市域に大名領(藩領)が生まれたのはいつからであろうか。
 「相武の藩領」(『神奈川県史』通史編2近世(1))によれば、厚木市域における大名領は寛永3年(1626)の厚木村水野氏領(備後の国福山藩)が初めであり、元禄11年(1798)には、厚木村・及川村・妻田村ほか津久井・高座郡を含む19か村が牧野氏領(下総国関宿藩)となった。
 近世中期以降、厚木市域には間部氏領、上野国舘林藩領、下野国烏山藩領、荻野山中藩領、小田原藩領、六浦藩領、下総国佐倉藩領、武蔵国川越藩領などの大名領があった。このうち、荻野山中藩は厚木市内に藩主の居所(荻野山中陣屋)を置いた唯一の大名であった。これら厚木市内に領地をもった大名について、次回から順次紹介することにしよう。
(飯田 孝) 

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