言葉と精神の離乳食★わらべうた    by  文・大熊進子/え・鈴木伸太朗

NO.28

たにしたにしことこと

 林から緑ヶ丘へ上がる丁字路の交差点に梅と桜が交互に植わっています。梅の木は背が低く、桜のほうがお姉さんのように高い。梅のほうが先に咲きます。桜に「どう私きれい?」と言いながら咲き誇っているようです。桜は桜で「今に見てごらん、私のほうが爛漫と咲くから。そのときあなたはもういないの」と言ってるように感じられます。
 ♪梅と桜とするもん この指たかれ〜♪ と言う歌とはチト情景が違うなあと思います。歌だと梅と桜が一緒に咲いているような気がします。でも実際には梅と桜は同時には咲かないのか、それとも咲く地方があるのか、謎です。
 桜と言えば飯山観音の桜祭りが始まります。と言っても私は写真でしか見たことが無く、一度は行って見たいと思っていますが、いつも行くときは桜が咲いていたためしがないのです。
 ♪たにしたにし ことこと いやまのまちへ いかねえか いやないやな ことこと きょねんのはるに いったらば さんしょのみそに こねられた いやないやな ことこと♪
 と言う歌をいつも今頃歌います。幼児たちは10人に1人くらいしか田螺を知りません。でも「おじいちゃんに聞いた」とか「見たことある、カタツムリみたいな小さい貝!」などと言ってくれる子供がいると話が弾みます。
 この歌の「いやまのまち」とは「飯山の祭り」のことだそうで、歌だからイイヤマが縮まって「いやま」になり、厚木語でマツリが「まち」になったらしい。「クスッ」と笑いたくなるように可愛い歌だなあとこれを歌うといつも思います。それに第一不合理です。去年の春に山椒の味噌でこねられた田螺が歌ってるんですから……。
 昔長野に疎開していたとき田んぼで取ったタニシを茹でて食べて、ホントに美味しいと思った。その味が忘れられず、しばらく時がたって田螺を食べたいと思ってももう無かった。その頃には居酒屋で「つぶ」として饗されていたような気がします。それでも食べたい一心で注文して呆然としたのを思い出します。味が全然違ったのです。田んぼで育った田螺は何だか丸々としていてジューシーで貝の旨みが口の中いっぱいに広がった、というように覚えていたのです。そう、何にも無い時代だったからね、草ばっかり食べていた舌にとってはまるでお刺身のように感じたのかもしれません。私にとっては田螺はご馳走、この歌を歌うたびに幻の味を幻影の中で味わっているような感じです。
 たにしたにしことこと〜 と歌うたびに思い出すのは日本の昔話の「田螺長者」です。子どものないおじいさんとおばあさんが息子として田螺を授かる。良い若者になって馬の耳に入れてもらい良い声で歌いながら長者様のところへ年貢米を持っていく。そして長者様の娘を嫁にもらうが、娘がおまいりに行く時に、田んぼの脇に置いておいてもらう。おまいりに行った娘が帰ってくると大事な婿様である田螺殿がいない。何処へ行ったのか、烏に食べられてしまったのか、必死で晴れ着もなんのその、田んぼに入って探す。見ている人々は「若いのに気の毒に、気が違っているのか」と言い合っていると、娘の信仰によって美しい若者になった婿殿がすっくり現れた、めでたしめでたし、と言うお話です。
 何故か知りませんが私はこの話が大好きです。折があればこの話もしたいと思っていますが、いい折を見つけることができません。時、チャンスというものはなかなか来ないし、ぼんやりしていると通り過ぎても気付かない、おまけにチャンスには前髪しかないから、通り過ぎたらつかみどころが無い。
 今年は私も飯山の桜祭りに行こう、そこで美味しい田螺の山椒の味噌煮があったら食べたいなあ〜!えっ、田螺長者かもしれないって? そうだったらどうしよう?

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