厚木の大名 <N08>

上野国館林藩松平氏      伊從保美

越智松平家家紋(丸に揚羽蝶・左巴)と旗指物(『藩史大事典』第2巻)
 短期在藩のもう一つの事例として、江戸時代中期、松平清武(きよたけ)による上野国館林藩(群馬県館林市)支配がある。
 清武は、三代将軍家光の次男甲府宰相徳川綱重次男で、前回紹介した間部詮房を登用した六代将軍家宣の弟である。
 寛文三年(1663)十月二十日生、母(田中勝守の女)の嫁ぎ先の家人越智(おち)喜清宅に誕生し、喜清死後遺跡三百石を継いだ。その後、宝永元年(1704)家宣の江戸城西ノ丸入りに従い、十二月寄合衆に列し采地二千石を賜う。
 翌二年にはさらに二千石を加恩され、相模国高座・鎌倉、武蔵国埼玉三郡にて四千石を知行する。宝永三年正月「御ちなみ」により、常陸国真壁、下総国相馬・豊田、武蔵国埼玉、相模国鎌倉・高座・愛甲郡の七郡に一万石加増され、一万四千石の大名となった。
 はじめは養い親の姓越智を称したが宝永四年「越智松平氏」の祖となる松平の称号を許され、上野国邑楽(おうら)郡内に一万石を加増され、上野国館林藩二万四千石を領し、のち二回の加増で五万四千石となった(『寛政重修諸家譜』)。
 江戸時代の館林は家康の関東入国に伴い天正十八年(1590)榊原康政(十万石)が城郭と城下町を整備、徳川綱吉が城主のとき栄えたが、綱吉が将軍就任後破却され廃城となっていた。松平清武はこれを再築、城は享保六年(1721)三月に完成、湖沼を要害とした典型的な大城郭となった。しかし、藩財政の窮乏による館林騒動等があり、多難な藩政を強いられた。
 さて、清武が宝永三年に一万石を加増された時、相模国愛甲郡にも所領が設定された。『神奈川県史』では「中・下荻野村(厚木市)、田代村(愛川町)等に」加増されたとするが、『藩史大事典』では、清武の宝永四年館林藩所領二万四千石の内訳は上野国邑楽郡のみで相模国の記載は見えない。
 『新編相模国風土記稿』には、愛甲郡下荻野・中荻野・田代各村の項に清武の名が見える。中荻野村では「初御料なり、元禄四年越智民部清武に賜り、清武下総守に任じ、宝永四年上州館林に得替の後、御料に復し」とある。下荻野村は「中荻野村に同じ」、田代村は「(宝永)三年越智下総守清武に賜ひ、四年又御料となり」と見える。ここでは中・下荻野村では領有年代が元禄四年からとなっており、また宝永四年には清武の愛甲郡の所領は御料(幕領)にかわっている。
 また、文政九年(1826)下荻野村「地誌御用御調書上帳」にも元禄四年(1691)から宝永三年まで「越知下総守様御領分」と記されている(『厚木市史史料集』(4)地誌編)。
 『寛政重修諸家譜』においても鎌倉郡・高座郡・愛甲郡の村名は判然としないし、所領変遷の記載も少ない。よって、清武の所領の明確な村名と領有期間は現時点では明らかにしえない。今後の新資料の発見と在地の関係資料の詳細な検証が必要となる。
 立場は違えど、松平清武も間部詮房と同様大名累進時に相模国愛甲郡を含む所領を与えられているのは偶然の一致であろうか。愛甲郡の地が大名への第一歩を記すに足る要地であったからなのか。
 清武は享保九年(1724)九月十六日没。六十二歳。本賢院養意日覚と号し、墓所は江戸谷中善性寺。
 清武には館林城をめぐる歴代城主の盛衰を述べた宝永四年成立『館林盛衰記』の著作がある。

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