連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO5(2001.3.1)     「相模女好色考」
 『相模女好色考』は、江戸時代の川柳によまれた「相模女」について述べた34頁の小型本で、昭和31年(1956)、「こきおろし会蔵版」として300部が限定出版された。
 著者の斎藤昌三(1887〜1962)は、座間村入谷(現座間市)の出身。『明治文芸側面抄』『明治文化全集』『現代日本文学大年表』などを編し、昭和35年には神奈川文化賞を受賞した。また、茅ヶ崎市に長年住み、晩年は名誉館長を務めた茅ヶ崎市立図書館には、斎藤昌三文庫があって自筆原稿や書簡等も収集されており、70冊を超える著作は『斎藤昌三著作集』に収められている(『神奈川県姓氏家系大辞典』『神奈川のふみくら』)。 
 さて、『相模女好色考』が取り上げた「相模女」「相模下女」について『広辞苑』には次のように記載されている。
 さがみおんな[相模女]相模国の女。情がこまやかで好色との伝えがあった。さがみ。
 さがみげじょ[相模下女]相模国から出た下女。川柳などでは多く好色なものにいう。
 『広辞苑』には、『柳樽八』の「相模下女相手にとってふそくなし」の用例が示されているが、宝暦から天保年間(1751〜1843)の江戸川柳では、「相模下女」を題材としたものがかなりの数にのぼっている
 そのいくつかをあげてみよう。
  させること相模古今にひいでたり
  押寄て来ても相模の女武者
  相模下女いとし殿御が五六人
  一度して息子は相模灘にあひ
  二三日間がありゃ相模恨み侘び
 さらにその出身地を連想させる川柳もある。
  厚木から置いた女でもめ返る
  伊勢原を置いたで店がらんがしい
  得心の下女大山の近所なり
 『相模女好色考』は、滝澤馬琴の『兎園小説』の余録に、近々相模から下女奉公に出たものが八九百人あり、麹町(現千代田区)の相模屋で一手に紹介していたが、文政12年(1829)の江戸大火で焼死した者が多かったので、それからは江戸へ出る者がなくなり、馬琴も一人の下女を探すのに苦心したという記述を引いたうえで、相模下女の出身地について「その産地は大体相模の中央、厚木から伊勢原附近と見るのが妥当であらう。この地方は江戸の行事たる夏山登山の大山信仰と、密接な関係があるからである」と考察している。
 明和6年(1769)には、江戸の松平家家中安藤新之丞宅へ奉公に出ていた、大住郡中戸田村(現厚木市戸田)百姓金兵衛の娘るんが病気で帰村した時、江戸からるんを追いかけて来た三吉なる小者が、かれこれ難題をつけ、脇差を抜いて刃物ざんまいとなる事件が起きており、厚木地方から江戸奉公に出た一人の女性の消息を知ることができる(『厚木市史』近世資料編(2) )。
 また、安政4年(1857)初演の歌舞伎狂言「網模様灯籠菊桐」に登場する江戸吉原のおいらん玉菊が、「相模国厚木村の百姓」畑助の娘とされているのも(『黙阿弥全集』)「相模女」「相模下女」の既成概念が世評として江戸庶民の間に広がっていたことと無縁ではあるまい。
 ともあれ、『相模女好色考』の巻末部分をあげておこう。
「若し相模女が好色多情であったとしたら、その血統を承けてゐる現在の女性も、亦然りであるべき筈だが、当今の相模産の女性には、さうした噂は殆ど聞くことがない。好色多淫と片付けたのは、大体天保期(約100年前〈筆者注。但し平成13年からは約150年前となる〉)までの川柳や雑俳に限られ、それ以降のものには全くかかる浮説のないことから見ると、結局は宝暦天保間だけの川柳人の遊戯から、とんだ大きな波紋を投げたものといふ結論になる。敢えて相模女のために、古川柳の作者に抗議する次第である」。

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