今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO27(2002.03.01) 大正から昭和へ―花火大会の再開と鮎まつり

昭和11年の花火大会

 大正15年(1926)12月25日、大正天皇が崩御して年号は昭和と改元された。このため、昭和元年はわずか7日間であり、8日後には昭和2年の元旦を迎えるのである。
 大正天皇の崩御をうけて、昭和2年の正月は全国民が喪に服してさまざまな祝賀行事の自粛が促された。大正15年12月18日の「横浜貿易新報」によれば、厚木芸妓組合は12月16日に役員会を開き、「聖上陛下御不例に就き、組合員は音曲を御遠慮申上ぐる事」を自発的に決議したという。
 このような状況下、昭和2年(1927)1月3日「横浜貿易新報」紙上には、「厚木芸妓組合見番」の「諒闇缺禮」広告が大きなスペースをとって掲載された。「諒闇缺禮(りょうあんけつれい)」の「諒闇」は天子が父母の喪に服する期間の意である。その期間は1年とされ、この間は国民も喪に服した。「缺禮」は「欠礼」である。
 「諒闇缺禮」広告にある「厚木芸妓組合見番」のメンバーは左記の通りである。 
 静もと(名代蒲焼)、新倉(御料理旅館)、大阪屋(蓬莱すし)、美登利(西洋支那料理。元中華公使館料理主任陳日華)、叶屋(御料理。支店カフェー高橋)、厚木食堂(西洋料理)、石多家(割烹、鮎漁遊船御案内所)、有田屋(御料理、すし、蒲焼)、さがみや(御料理)、楽養軒(西洋料理)、三浦屋(御料理)、萬八十(御料理、仕出し)、大澤屋(御料理)、若松屋(御料理、旅館、鮎漁遊船御案内所)、相模屋(御料理、旅館)、石金(御料理、元祖みつ豆)、水明楼(旅館)、千鳥園(御料理)、丸花魚専(支店丸政)、吾妻屋(西洋支那料理)、高橋屋、松島屋、春本、勢勝、栗原屋、萬千、末吉、立花家、大島屋。
 また同じ「「諒闇缺禮」広告には、三十八名の厚木芸妓連の名もある。
 愛子、小蝶、小太郎、三栄、かの子、久松、小奴、金太郎、三筋、いう子、松奴、たより、そめ子、君香、日出松、小静、幸枝、千代龍、音丸、豆子、あやめ、吉奴、小あさ、かね松、一若、力弥、勝利、小勢い、丸子、国千代、てまり、鶴丸、駒吉、梅太郎、すずめ、藤丸、小竹、玉子。
 大正年代は、厚木の芸妓数が急増し、花柳界の発展が顕著な時代であった。大正2年(1913)には18名であった芸妓が、大正15年(1925)には43名を数えるまでになっていたのである。(「今昔あつぎの花街〈20〉)。
 大正15年8月9日には、厚木町(市制施行以前の愛甲郡厚木町)有志主催の「納涼会」が催され、花火大会も行われているのは、花柳界の急速な発展が背景にあったからだろう。この「納涼会」は、厚木料理屋組合の篠崎信(傳)蔵(大嶋屋)、岩崎初太郎(若松屋)、石井庄(荘)吉(石多家)らが発起人となり、神中線(現相鉄線)、相模鉄道(現相模線)、小田原急行鉄道(現小田急線)の後援を受けて開催された。
 9日午後7時より開催された「納涼会」は、「数千仕掛煙火の美しき光景に、雨も忘れて見惚れ、丘には芝居・芸妓の手踊り等、煙火に負けじとの意気に是又人気を惹き、十二時頃まで押すな押すなの雑踏で、空前の賑ひであった」(「横浜貿易新報})。
 このような流れをうけて、昭和2年(1927)には、中断していた「川開き」が幾年ぶりかで開催された。
7月14日の川開きは、厚木町鮎漁案内所が神中・相模・小田急などの後援をうけて行われ、「十四日夜の厚木町の相模橋(現あゆみ橋)付近は」、「見物人で埋まる盛況で、技巧を擬した仕掛煙火は、見物人をヤンヤと云わせ、十時頃終った」(「横浜貿易新報」)。
 また、昭和9年(1920)には新しい「厚木音頭」が発表されるが、この時には「鮎まつり」の唄も合わせて発表されている。
 作詞は「厚木音頭」と同じ栗原白也、作曲も「厚木音頭」と同じ大村能章であるので、この両曲はセットとして製作発表されたことが考えられる。
 さらりと流れる相模川
 上る若鮎躍る鮎 
 そら釣れそら釣れ
 ヨヨイトナ
 鮎の厚木の鮎まつり
 唄が発表された「鮎まつり」の具体的な内容は不詳であるとはいえ、現在も行われている「鮎まつり」の名称は、この伝統を受け継いだものといえるのである。

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