連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

NO15 (2001.08.01)        明治42年の相模川鮎漁会

 明治42年(1909)9月4日(土)・5日(日)両日には、横浜貿易新報社会部主催の相模川鮎漁会が開催された。
 この鮎漁会は、「鮎漁地として都会人士に多く知られざる厚木を紹介せん」と企画されたもので、「横浜貿易新報」紙上で、大々的に宣伝され、その一部始終が詳細に報道された。
 以下、「横浜貿易新報」によって、その概略を紹介してみよう。
 まず、交通費・宿泊費を含めた会費は1人3円。会場となる厚木近辺の人で、5日の鮎漁にのみ参加する場合は、会費1円を添えて若松屋・古久屋、高島亭の3旅館に直接申し込むこととされた。鮎漁会は当初、50名を目途として募集したところ、「盛況を以て歓迎され」ついに100名を定員としてしめ切らざるを得ない状況となった。

明治42年9月4日・5日の相模川鮎漁会寄贈品広告(横浜貿易新報)

 9月4日午後3時7分、会員一行を乗せた列車は横浜駅を出発した。
 出発に先立ち、「活動写真隊は、駅前噴水の辺にレンズを据え、今しも定刻に先立ち続々として入り来る会員を撮影せるが、鐸鈴出車を報じて、一同プラットホームに入るや、青き2等の帯を締めたる列車は除々として構内に入来り」、一行を乗せて横浜駅をあとにした。
 列車内では、横浜蓬莱町箱根商会寄贈の「シャムピンサイダー」をかたむけ、日本麦酒会社寄贈の団扇を使い、「嬉々として談笑する間に」「金風一陣陰雲を払ひ、雨亦晴れて」3時20分平塚駅に到着した。
 平塚駅では厚木の愛信堂新聞店店員や通信員の歓迎を受け、百余輌の「腕車(わんしゃ。人力車の別称)」に分乗し、沿道の人々が鍬の手を休めて、驚異のうちに見物する中、長蛇の如く厚木に向って進行した。
 一行は「県下の豪農小塩家を相川村の路傍に見」「四里の行程も道路の平坦に些(さ)の事故もなく、第三中学校(現県立厚木高校)を左に」見て、「セイタイ橋を渡り、4時半を以て愈々厚木町に入るや、一発の烟火轟然中空に爆発して、一行歓迎の意を表」した。

 厚木での宿泊旅館の人員割は左記の通りであった。
 古久屋 39名
 若松屋 30名
 高島亭 31名
 4日の夜は相模川での灯籠流しに、一段の光彩を添えた松火流し、また仕掛花火と打上花火、さらに厚木総芸妓連の手踊りという壮観を、一目見物しようとする人の波は橋上堤上に集まり、「厚木町開闢以来の人出」であったという。
 明くれば9月5日。夜来の雨はわずかに晴れて、午前8時半、川岸につながれた昨夜の飾り船7艘に芸妓連を伴って分乗、活動写真隊が撮影する中、相模川を上流に向った。
 漁師のうつ投網が川面に広がり、鮎狩が始まる頃になると「細雨微風に吹かれて」一行の肩にかかりはじめ、「雨勢次第に劇しく」なって、風も強さを増していった。
 「この偶然の出来事の為に」幹部は鮎狩を中止」午前11時前には上陸して各旅館へ入り、船中より持帰った折詰めと、厚木の近江屋、内山酒店寄贈の「瓶詰正宗」とで昼食をとった。
 午後2時、「一行は帰途に上るべき結束」した。相模橋(現あゆ橋)のたもとに設けられた桟橋から3艘の船に分乗。「幾千の厚木町民に見送られ」、10数発の花火と、1艘のうちに乗込んだ太鼓連の里囃子とが相和す中を船出した。
 「相模川の急流を幾屈曲して矢の如く下れ」ば、「雲は何時しか散って空晴れ」、「模糊として迫り来る相模の連山を眺め」、「互いに陰芸の十八番を演じつつ興湧くが如き間に馬入橋(平塚市)へ到着」した。
 相模川河口の馬入橋近くでは、馬車と人力車が一行を待ち受けており、これに分乗して平塚駅に向った。
 一行は平塚駅発5時4分の上り列車に乗車、無事横浜駅に到着したのは6時20分であった。

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