2003.11.15(NO40)  南大和小合奏部の悲劇

消失する前の校舎で練習する合奏部
「カン、カン、カン、カン、カン・・・」
 半鐘がけたたましく鳴りだしたのは、もうそろそろ人々が寝床につこうかという時刻だった。そのうちに鐘を打ち鳴らし、サイレンをうならせて消防のポンプ車が町中を走り抜ける。
 「南大和小が火事だ!」
 それは昭和31年11月、冷え込んだ秋の夜のことだった。
 火の気のない学校の物置から出火した赤い炎は、あっという間に木造校舎をなめつくし夜空を焦がす。めらめらと音をたてて生き物のように不気味に炎と火の粉が舞う。次々と駆けつける消防車の放水が孤を描いて一斉に火の化け物に襲いかかる。小田急の土手に坐りこんで事の成り行きを見物している野次馬もたくさんいた。
 南大和小合奏部のメンバー、A子は父親に手を引かれて暗がりに出た。燃えさかる学び舎を遠くから見て、膝がガクガクと震えるのをおさえられなかった。つい何時間か前の放課後、いつものように神崎象三先生の指導で、春の「こども音楽コンクール」に向けて懸命に「軽騎兵序曲」のハーモニカ合奏練習をしたばかりだった。
 「音楽室にしまってあるアコーディオンや弦バス、太鼓はだいじょうぶなのだろうか」
 いま目の前で起きていることがまるきり夢の中の出来事のようだった。
 神崎先生の元へは父兄から連絡が入り、先生はタクシーを飛ばした。車中、先生の胸中を去来するのは音楽室の楽器の安否だった。
 先生が学校に着く頃には火勢はおさまって、水浸しの校庭がポンプ車のヘッドライトに照らされていた。3棟の校舎の18教室が焼失する大火事だった。幸い音楽室は焼け残った。
 ところがその火災からそう時をおかない翌昭和32年2月に再度、原因不明の火災が発生し、北校舎教室と講堂だけを残して音楽室も全焼した。もちろん、すべての楽器が灰と化した。
 翌朝、霜柱を踏んで学校へ来た合奏部のメンバーたちは無惨な姿をさらす音楽室あたりを呆然と見やり、不安な面持ちで、「これから合奏部はどうなるんだろう」とつぶやいた。
 T子は、教室で飼っていた金魚や亀たちが死んでしまったことがたまらなく悲しかった。女の子たちは何人もが泣き出した。
 1、2、3年生は残された校舎で2部に別れての授業、4、5年生は渋谷小学校で、6年生は大和小学校でそれぞれ授業をすることとなった。進駐軍の駐屯する基地の街、大和は駅前のキャバレーなどが不審火で焼失する事件もあったばかりだった。
 50名弱の合奏部の子どもたちは、近くの深見幼稚園を借りて練習を再開したが、それまでのような練習はできなかった。
 昭和32年3月28日、日比谷公会堂で開催された「こども音楽コンクール」の関東決勝大会には、太鼓やアコーディオンなどを麻溝小から借りて出場したのだが、残念ながら上位入賞は果せなかった。
 その何日か後には、南大和小は廃校となることが決定され、学区割りも見直されて、子どもたちは急遽あらたに建てられた草柳小と深見小に別れて通うことになった。神崎先生も転任し、麻溝小と競い合った南大和小のハーモニカの合奏部はその短い歴史を閉じることになるのだった。

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