2003.09.01(NO34)  新潟への交歓演奏旅行
新潟への交換演奏旅行に旅立つ麻溝小の子どもたち(昭和31年)  「もはや『戦後』ではない」、そんな中野好夫の評論が『文芸春秋』に発表されて注目を浴びる時代だった。昭和30年の経済成長率は9%で、戦後経済最良の年といわれもした。鉱工業生産は12%、農業生産は20%も増加し、しかも物価はほとんど上がらず、国際収支も5億万ドル以上の黒字となった。
 『文芸春秋』2月号が発売されてまもない昭和31年1月20日、麻溝小リード合奏団の面々は新潟県学生ハーモニカ連盟の招待を受けて、新潟へ2泊3日の交歓演奏旅行に出かけたのだった。 
 前年の神奈川県下学生器楽合奏大会で最優秀賞受賞、全日本学生器楽コンクール東日本大会で優勝、そして横浜国際音楽コンクールへの出場、全国大会での優勝と、あわただしい1ヶ月を過ごした麻溝小の子どもたちにしてみればご褒美ともいえる旅だった。
 上野発12時35分、急行「越路」。初めての汽車旅に嬉しさをかくせない子どもたちと、付き添う重昭や金井先生、それに何人かの父兄の姿もあった。
 5年生の井上君代は新調したばかりの真っ白のオーバーコートと革靴に身を包み、いつもと違う誇らしい気分ですっかり上機嫌だ。この日のために母と町田のデパートまで行って買ったそのコートは、このあと何年も着られるようにと幾分ぶかぶかとした、たっぷりめのものだった。紺や黒を着る者が多いなか、君代はことにその混じりけのない純白の色が気に入っていた。
 特に新調することもなく、いつもの詰襟姿の同級生の小山勝男や清水美恵子たちはおでこを窓に押し当てて、窓外の景色に見入る。木々が飛ぶようにどんどん後方に遠ざかるさまはいつまでも見飽きることがなかった。
 高崎を過ぎ、幾多のトンネルを抜けて水上駅に着くとホーム一面が雪だ。停車時間中に、駅員がとってくれた一握りの雪をほっぺたに押し当てて喜ぶのはT子だった。
 再び冬空の下を列車は走り始め、長い長いトンネルを抜け切るとそこもまた雪が降りしきる銀世界で、子どもたちはいっそう目を丸くして外の景色を見やるのだった。
 新潟駅に着いたのは夕刻の6時半、すでに外は暗く雪は止んでいた。改札を出ると豊照小のハーモニカクラブ員や、星校長、重昭がかつてお世話になった仲村洋太郎らがにこやかに出迎えてくれた。ひとしきり握手を交わしあうと一行は直ちに豊照小に向かい、PTAや関係者の歓迎を受けた。子どもたちは1、2名づつ豊照小の子どもたちの家庭へ分宿することになっていた。
 人一倍寂しがり屋の井上君代は一人で女の子の家に泊まることになった。慣れない家と、雪国特有の寒さも手伝って心細い思いに自然と涙が頬を伝った。
 小山勝男も両親が雑貨屋を営む子どもの家に一人で泊まることになった。彼もその家になかなか打ち解けることができなかった。親元を離れた寂しさだけが心の中を領して無口になった。
 清水美恵子は一級下の女の子の家に泊まった。その家は母親が床屋さんで、おじいちゃんが家事の一切を仕切っているようだった。どういうわけか父親の姿は見かけなかった。
 各々が不安と寂しさを覚える第一夜だった。そんななか麻溝の子どもたちが一様に感動したのはお米のおいしさだった。陸稲に麦を混ぜて食べるのが普通だった麻溝の子どもたちのこと、米どころの炊きたての真っ白いご飯は初めて口にするもので、そのおいしさは例えようもないほどだった。おじいちゃんが握ってくれたおにぎりを別れ際、持たせてくれたのを清水美恵子はいまも忘れることができない。

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