厚木の大名 <N049>

前橋藩(酒井氏)と市域の村々   伊從保美

前橋藩主酒井氏系図(『文化武鑑』厚木市史編さん係蔵)
  前橋藩は上野国前橋(厩橋・まやばし)城(群馬県前橋市)を藩庁とした譜代中藩である。徳川家康の関東入国にともない平岩親吉が封ぜられて成立し、以後酒井氏が九代・松平氏が七代続いた。慶長6年(1601)、平岩氏の甲府転封後、酒井重忠が武蔵国川越一万石から三万三千石に加増され入封、以後忠世・忠行・忠清・忠挙(ただたか)・忠相・親本・親愛・忠恭(ただずみ)と百五十年にわたり酒井氏の治世が続く。この酒井氏は徳川氏と同祖と伝え幕政に重きをなした家であり、忠世以来雅楽頭と称した。
 二代忠世は将軍の側近として累進目覚ましく、十二万二千五百石余になった。四代忠清は将軍家綱の老中首座となり権勢を振るったため、その屋敷の位置から「下馬将軍」といわれ十五万石を領するに至った。
 藩域は、勢多・前橋両郡にわたる利根川左岸の城付を中心に上野国大胡西領・同東領・善養寺領・玉村領・藤岡領・里見領、国外は武蔵・相模・上総・近江に及んだ。表高は十五万石であった。しかし、九代忠恭の寛延2年(1749)、家臣の策計によって播磨国姫路(兵庫県)へ転封となり、かわって姫路から幼君松平(越前)喜八郎朝矩(とものり)が十五万石で入封した。
 しかし、この頃すでに利根川の浸食によって前橋城は半壊し藩財政も困窮していた。宝暦7年(1757)には本丸放棄をせまられ、松平氏は明和4年(1767)に武蔵国川越城に移った。居所で藩名をつけるならば前橋藩ではなく川越藩となり、前橋領約七万石は分領として以後約百年間は川越藩の前橋陣屋支配となった。
 やがて文久3年(1863)、松平直克(なおかつ)の時、幕末の動乱の中で江戸の北方守備の必要から念願の前橋城再築が許可された。慶応3年(1867)3月竣工し、石高十七万石として再び前橋帰城を果たしたが、まもなく明治4年(1891)7月、前橋県となり、10月には群馬県に編入された。
 前橋藩主酒井氏の相模国所領は四代忠清の代、寛文3年(1663)、三浦郡に加封されたのがはじめである。次に、五代忠挙の代、寛文八年に高座郡にも所領を加えられ、九代忠恭が延享元年(1744)老中に就任した際、三浦・鎌倉・高座・愛甲・淘綾・大住郡に所領が設置された(『寛政重修諸家譜』)。
 延享四年の前橋藩相模国領の総石高は一万五千石余であり、酒井氏の所領は寛文年間から三浦郡を中心に存在し、そのほかの所領は延享期に相模五郡に分散し領有していたといえる(『神奈川県史』資料編4)。
 次に『新編相模国風土記稿』にみられる酒井氏所領の村名を挙げてみよう。
三浦郡 大津・走水・鴨居・佐原・逸見・木古庭・公郷・浦ノ郷・横須賀・長浦・田浦・中里・久・久里     浜・桜山・逗子・沼間・久野谷・山根・長柄・堀内・一色・上山口・船越新田・長井・菊名・松輪
大住郡 四ノ宮・豊田本郷
愛甲郡 船子
鎌倉郡 岩瀬・桂
淘綾郡 国府本郷・山西
高座郡 用田・中河内・吉岡・上今泉・羽鳥・大庭
 『新編相模国風土記稿』の船子村の項には「酒井雅楽頭忠知」の名がみえ、幕領→間部詮房→幕領→酒井雅楽頭→松平朝矩・田沼意次と領主名が記されている。しかし、『風土記稿』には見えないが寛延頃の相模国の領主名がわかる「五郡邑数」には愛甲村・長谷村にも酒井氏の所領があったことが記されている。
 このように前橋藩酒井氏の支配は、厚木市域では愛甲郡船子村・愛甲村・長谷村において延享元年から寛延二年までの六年間であり、次いで前橋藩に入った松平朝矩の「前橋藩」としての支配は、松平氏が川越藩に転封になる明和4年まで続くことになる。

.

「厚木の大名」websiteの記事・写真の無断転載を禁じます。
Copyright 2005 Shimin-kawaraban.All rights reserved.