厚木の大名 <N048>

船子村後家とみ宅抜刀狼藉事件  飯田 孝

事件のあった船子村(『厚木市史』近世資料編(2)村落1)
  寛政元年(1789)三月十四日の夜、大住郡石田村(伊勢原市)名主伊平と息子善次郎両人が、船子村(厚木市)で、五人の村人に切りつけ、手きずを負わせるという事件がおきた。
 以下、この事件のあらましを『厚木市史』近世資料編(2)村落1に収録された「大住郡石田村名主伊兵衛、船子村後家とみ宅にて脇差抜刀狼藉訴訟返答書」から追ってみよう。
 船子村佐倉藩領の百姓三郎兵衛の妻とみは夫を亡くし、娘まきと暮らしていた。
 とみは、石田村(伊勢原市)の名主伊平の弟善次郎を、三十両の持参金で婿養子にむかえたが、この善次郎は農業をおこたるばかりか、家出をすることもたびたびであった。このため、たまりかねたとみは、善次郎に持参金を返して離縁してしまったのである。
 離縁という結果を、腹にすえかねた善次郎は、三月十四日の暮六つ時、とみの家をおとづれると、離縁になった妻のまきを表口に引出し、なぐりつけるなどの乱暴をはたらいてさわぎ立てた。
 何事がおきたのかと、かけつけた村役人たちによって善次郎はひとまず静かにさせられるが、えんがわで様子をうかがっていた石田村の修験快善は、この結果を伊平に知らせる。
 快善から報告をうけた伊平は、大勢の仲間に棒や熊手を持たせ、自らは脇差をさして船子村へ向った。
 伊平たちが、とみ宅へ来たことを知った善次郎は、にわかに身ごしらえすると、白襦袢にたすきをかけ、刀を抜いて飛出し、伊平の仲間たちと声高にさわぎたてた。
 この時、日は既に暮れて、風雨はげしい夜となっていた。
 騒動に気付いてかけつけた村人たちにもけが人が出た。当時の船子村は、佐倉藩領のほか、川越藩領と旗本犬塚・尾崎の両氏領があった。
 船子村川越藩領の名主九右衛門と倅源次郎両人は、切りつけられて手きずを負い、旗本犬塚氏領の名主文右衛門の倅林右衛門も、差し押さえようとして切りかけられ、かけつけた武左衛門はみね打ちにされた。
とみ宅の隣は、病身の老人佐兵衛の家であった。
 この騒ぎに驚いた佐兵衛は、「人殺しー」とさけんで、杖をつきながら表に出た。抜身をもった善次郎は門先へ押入り、佐兵衛に切りかかった。佐兵衛は手にした杖で刀を払ったが、後から伊平に切り込まれて倒れ、「生死の程も心元ない」「深傷」を負った。
 佐兵衛を切り倒した後、伊平・善次郎たちは闇にまぎれて姿を消した。
 船子村佐倉藩領の名主勘兵衛は、伊平・善次郎のほか、とみ宅へ踏み込んだ者として平八・善兵衛・甚蔵三人をつきとめて吟味を願い出た。
 ところが、訴訟手続に手間どっているうちに、逆に伊平が船子村の村役人たちに対する訴状を差し出してしまったのである。
 『厚木市史』近世資料編(2)村落1に収録された資料は、伊平の訴状に対する返答書である。
 訴えられた船子村佐倉藩領名主勘兵衛と、手きずを負った川越藩領名主久右衛門の代人五郎左衛門は、事件の一部始終を詳細に記し、伊平は善次郎を「隠置」、「種々偽り之儀」を「取拵」出訴したものであると述べている。
 この訴訟の結末を示す資料は確認されていないが、現代にも通じるような事件であった。  

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