厚木の大名 <N039>

藩校興譲館と郷学校静学館       平本元一

旧山中絵図面(明治8年) 裏門近くに「学校」がある(『荻野山中藩』)

 江戸時代には、藩主や藩士またその子弟は藩に設けられた学校、つまり藩校において教育を受ける機会はあったが、幕府の一般民衆に対する公的な教育施策というものはなく、したがって学校などはなく、わずかに寺院などで僧侶等が寺子屋を開き、志ある家庭の子弟を集め、読み・書き・算盤といわれる教育を行っていたのが一般的である。
 幕末の頃にはこうした寺子屋のほかに、寺子屋より高級な私塾が封建的な教育機関として存在し、その教育は儒教に基づく伝統的・古典的なものであったといい、こうした寺子屋や私塾の隆盛は開国以来の商品経済の農村への急激な浸透により、農民も基礎的な学問の修得の必要が生じたことによるとされる。
 さて、明治新政府は明治5年(1872)に学制発布を行い、日本の近代学校制度がここに発足するが、幕末から明治初期にかけての時期の荻野山中藩(維新後、荻野山中県、足柄県と変遷)の教育を藩校と郷学校という二つの面からみることにしよう。
 藩校興譲館は、藩主大久保教義が江戸から山中在住に伴い、旧名称をそのまま引継ぎ新設されたようである。明治元年11月、荻野山中陣屋地内に、藩士岡本隆徳、松下蔵人、石橋捨造によって設立された。
 建物は、学舎二棟、寄宿舎、教員室、炊事場、応接室、浴室という構成で、全体で百四十一坪を有していた。後にこれらの建物は、民間、学校などに払い下げられた。
 藩主教義は、特に儒学を尊び、教育に熱心であったので、藩の士族の入学は必須とし、平民の入学も許可した。ここに初めて一般庶民までも対象とした公的な教育機関が設立されたのである。教育内容は、儒学の中心書である「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四書の素読、和算、皇学の教授とともに馬術、剣術、砲術なども取り入れられた。半年毎に試験が行われ、生徒の等級は三等に分けられ、合格者には賞与が付与されると同時に落第者には厳しい罰則が科せられたようである。本シリーズNo32で紹介された「五種遺規」も山中文庫本として蔵書され、刊行を企図した六代藩主教孝の「五種の書は実に人の規(おきて)となるものなり、広くひろめて民衆とともにし、また自家の児孫の習読のために太田子龍に対校を依頼し上梓」した思いは、興譲館の教育に生かされたのであろう。興譲館はその後、明治5年の学制制定により第一大学区第二十九中学区第八十五番小学、同十年には山中学校、二十年には上荻野・荻野小学校となった。山中学校教員には、後に自由民権家として活躍する大矢正夫、佐伯十三郎らがいた。
 次に郷学校静学館は、明治4年7月、妻田・恩名両村の永野茂(妻田村組戸長兼取締役)、三橋久四郎(恩名村組戸長兼取締役)を中心として山中御役所へ提出された「郷学校取建仕法」の要望書に基づき、同年八月設立された。要望書には、「勉励相加エ銘々孝悌忠信之道ヲ知リ怠惰淫佚之風ヲ戒メ、上ヲ崇メ己ヲ慎ミ、大義方向ヲ弁別シ載然タル風俗相顕候様仕度」懇願する旨が書かれ、また、場所は「明キ屋ニテモ借受軽便ニ開業仕度」と述べている。実際、永野家敷地内の空家に設けられたようである。入学者は平民はもちろん、村外の者や女子もいたようである。講義は朝八時から昼二時まで、漢籍図書の素読を中心に行い、教師は若松幹男という者を当
て、貧窮人等関係なく有能な人材育成を目指したいという崇高な理想が掲げられている。明治5年、学制発布により第百三十四番小学校となり、明治13年妻田薬師地内に妻田学校として新築され、同25年尋常高等清水小学校となった。
 荻野小学校、清水小学校それぞれの学校には、明治の創立者の思いが今も伝えられている。 

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