厚木の大名 <N032>

大久保教孝と「五種遺規」      伊従保美

『五種遺規』見返し・跋文末尾(飯田孝氏蔵)
 「五種遺規」の刊行を企図した大久保教孝は天明7年(1787)に生まれ、寛政8年(1796)十歳のとき遺跡を継ぎ、荻野山中藩六代藩主となった。『徳川実紀』には享和3年(1803)9月、将軍家斉に初見、文政5年(1822)2月15日、大坂定番に赴任の記事が見える。
 弘化2年(1845)12月7日病により致仕し、その子金五郎教義に跡を継がせた。その後、万延元年(1860)1月24日に没する。 「五種遺規」とは清の陳弘謀撰、乾隆8年(1743)南昌李安民刊で「養正遺規」「教女遺規」「訓俗遺規」「従政遺規」「在官法戒録」が収録されている。養正は童蒙を、教女は婦女を、訓俗は士民を、従政は居官を教えるものであるという。

 陳弘謀は清、臨桂の人。宏謀ともいい、字は汝咨、号は榕門、諡は文恭。雍正(1723-1735)の進士であった。進士とは中国の科挙(官吏登用試験)の合格者。三十余年官にいて省十二を歴行、人心風俗の利害得失を究めて改革したという。「五種遺規」のほかに「培遠堂稿」も著した。
日本で出版されたものは天保3年(1832)刊「荻野山中文庫」版、及び天保4年刊河内屋喜兵衛ほかの版と天保4年刊の後修本がある(『和刻本漢籍分類目録』)。全十二冊。山中文庫版では漢籍にある「在官法戒録」が省かれ、「王文山紀綱故事」が総目に入る。
十二冊目の教孝の跋文にこの本を刊行した意図が述べられている。それによると、天保2年秋に陳宏謀の「五種遺規」を読み、五種の書は実に人の規(おきて)となるものなり、広くひろめて民衆とともにし、また自家の児孫の習読のためにと太田子龍に対校を依頼し上梓したという。
一冊目の巻頭に叙を著した太田子龍は漢学者。陸奥の人で名は善世・号は玄九。
跋文の後尾に「大久保教孝大阪鎮城京橋官舎に書す」とあるのは、これが教孝の大坂定番京橋口定番勤務中に著わされたことを示している(図参照)。
管見では三種類の「五種遺規」が確認できた。一つは奥付に天保4年(1833)正月発兌「製本所 発行書林 大坂心斎橋通北久太郎町 河内屋喜兵衛 同通博労町 河内屋茂兵衛」の記載がある十二冊本(飯田孝氏蔵)。黄色表紙。奥付前丁の中央に「荻野山中文庫」の朱印が押されている。
二つ目は奥付のない十二冊本(久崎教生氏蔵)。河内屋本より匡郭上の頭注が多く本文の版は同じであるが注に差異が認められる。
三つ目は水色表紙の十二冊本で、やはり奥付がない(飯田氏蔵)。巻末の「荻野山中文庫」の印影が黒であり、他の十二冊本とは印文に若干違いがある。全般的に版に荒れが見られる。
また、この本の一冊目五種遺規総目には前二者とは異なる記載が見える。前の二者では総目に「王文山紀綱故事」を掲げているが、この本ではそれを掲げず、なぜ五種遺規と呼ばれているかの解説が加えられている。さらに、その裏面、養生遺規の表題の字体が行書ではなくなり、これに続く太田子龍著の「刊五種遺規叙」も字体が変わり、丁数も一丁分減っている。
一つ目の本の天保4年刊奥付にある河内屋喜兵衛・河内屋茂兵衛は、天保3年12月27日、大坂本屋年行司と連名で奉行所に「大久保出雲守様御蔵版」五種遺規の御用残り分の売捌き許可願いを出している(『大坂本屋仲間記録』)。
天保3年に大久保教孝の希望で太田子龍の校訂により翻刻された五種遺規は、当初関係者に供され、残りを河内屋喜兵衛らが売捌き、その後も頭注などを改めたり、総目や叙の体裁を変えるなど版を重ね刊行されたと思われる。
荻野山中藩主大久保教孝の思いは五種遺規の出版によって広く普及したものであろう。

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