厚木の大名 <N026>

荻野山中陣屋跡発掘調査        平本元一

布堀柱穴列の建物跡。厩の可能性も考えられる。(『下荻野山中遺跡』)  五代藩主大久保教翅により、天明3年(1783)に建設された荻野山中藩陣屋の様子を知る手掛かりには、寛政3年(1791)写しの絵図面があるが(以下「絵図面」)、現在、当時の面影を残しているものは稲荷社と清水(絵図面にシミズの記載がある)の二箇所だけである。
 幕末の陣屋焼討や明治以後の耕作などにより、建物や陣屋の全てが失われたが、一部分ではあるが発掘調査により、地中に埋もれた陣屋の建物跡と思われるものを確認することができ、絵図面との比較検討をすることにより、絵図面に描かれた内容を一つ一つ検証することができ、この陣屋の様子が一つ一つ明らかになりつつある。
 今回は、発掘調査によって得られた情報を紹介しながら、それらを絵図面と照合することにより、文字や絵に描かれた絵図面という歴史資料と発掘調査という土地に刻まれた痕跡やそこから出土する遺物(土器、陶磁器など)とを比較しながら、陣屋の実態を考えてみよう。
 この陣屋に関する発掘調査は、過去四回行われている。年代を追ってみると、まず最初は、陣屋北西部の一部に住宅建設が行われることになったため平成四年に実施された調査で、翌平成五年には、国道412号のバイパス建設工事が、この陣屋跡を通過することになり調査が行われた。平成7年から8年にかけては市道拡幅工事及び史跡公園として保存するため、遺跡の内容を把握するために行われた調査である。
 国道412号の調査では、陣屋の南西部分を含めた凡そ1600平方メートルが調査された。この調査では、陣屋に関係する江戸時代より前の平安時代(8世紀〜9世紀)の竪穴住居址が発見され、古くから居住地に敵した場所であったことが認められた。調査部分が陣屋のどの場所かについては、絵図面と照合してみると馬場と矢場とみられる部分であろう。陣屋に関係すると見られる布堀の柱の穴が六列発見され、五区画の室が想定され、厩や物置などが想定されるかもしれない。仮にこうした建物であるとすると、絵図面にはこれらを示す記載はないので興味深い発見である。また、この付近で普通に見られる赤土(ローム層)の上の黒土がほとんどないので、陣屋を
造る際、かなり造成をしたのではないかと考えられる。
 次に住宅建設と市道拡幅に伴う調査は共に隣接する部分で、陣屋北西部に当る部分であるが、陣屋と外部の田を区画する土手の周辺に該当するところである。つまり陣屋の北西の端に当る部分である。土手と見られる部分は、道路として使用されていたものとみられ、小石を含む非常に硬い面であったという。この面の下からは平安時代頃の住居跡が発見された。また、日常使用されたとみられる18世紀の陶磁器類の破片も多く発見された。
 最後の調査は、陣屋の南東側から東側の一部について行われた。ここは、絵図面では周囲の土手と平行線の連続の表記で囲まれた部分で、長屋二棟、物置一棟、蒸篭一棟、井戸が描かれている。調査の結果、平行線の一つは幅七、八十センチ、深さ一メートル弱の堀で断面形は逆台形を示しており、また一つは径五センチほどの小石を敷き詰めた通路とみられるものであることがわかった。また、長屋などの建物は明治以後の耕作などにより失われたことも考えられるが、一般的な基礎と見られる礎石はなく、柱穴を溝でつなぐ形となっており、掘立柱式の構造であろう。現状も同様であるが、絵図面で堀を示す平行線を境にして、御殿の一画は長屋などのある部分に比べ七、八十センチほど高くなっている。また、周囲の土手は東側で数段となっているがこれは当初のままと思われる。
 地上の建物は、明治維新とともに失われたが、地下には江戸時代の陣屋の姿がそのまま残されているのである。    

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