厚木の大名 <N019>

海底紙          伊従保美

明和5年8月江戸紙仲間奉納石灯籠1対の内。栃木県烏山町宮原八幡宮所在。
  海底(おぞこ)は愛川町角田の一集落。成井姓の家が多くある。ここは手漉き和紙「海底紙(おぞこうがみ)」の産地として知られている。この角田村は享保13年(1728)烏山藩領となり、程村紙の産地栃木県烏山から紙漉きの技術が伝わったと言われている。
 那珂川の清流に抱かれた烏山町は、建保年間(1213〜1218)那須十郎が越前から奉書漉立職人を招いて那須奉書を漉いたのを起源とする、和紙の産地として知られている。
 江戸時代の檀紙・十文字紙・程村紙・西ノ内紙・桟留紙などは那須紙と総称され、その内、厚紙の至宝といわれる烏山町の程村紙(ほどむらし)の製法は国選択無形文化財となっている。原料に優良な那須楮(なすこうぞ)を使用し、米糊を加えて漉く溜漉(ためすき)による、紙肌の緻密な丈夫で優雅な紙である。
 江戸時代は農耕で得られる米は年貢として収納されるため、幕末の貨幣経済に目覚めた農民が和紙や煙草生産に力を入れるのは全国的な傾向である。しかし、烏山藩は紙・楮(こうぞ)・煙草の特産品三品を専売品に定めようとした。烏山藩では武鑑にも見えるように、元文5年(1740) 5月から将軍に対し、それまでの筍に替え小杉紙を献上している。御用紙として確保するため、領主からはその奨励と統制が行なわれた。
 城下烏山町は、煙草・紙の集散地となっており、那珂川の船運と、下館から黒羽に至る街道と江戸や水戸への街道の交差する町場であり、江戸へ出荷する問屋や仲買人が軒を並べた。「江戸紙商人問屋」六人、「紙商人」三人、「紙売買宿」七人などかなりの数の紙関係商人も含まれていた。
 江戸紙商人は、古く貞享2年(1685)烏山町太平寺の石段を、明和5年(1768)同町宮原八幡宮には石灯籠一対を寄進している。石灯籠には「江戸紙仲間」小森平兵衛・村田儀兵衛・小津伊兵衛・西村権七等の名が刻まれている。江戸商人が直接産地に進出していることがわかる。
 現在その製紙技術を守るのは一軒のみであり、ここで漉かれた紙は、卒業証書や山あげ祭の山などに使用されている。
 烏山藩相模国所領で、紙漉きが行なわれていた海底は、丹沢山塊を源とする中津川右岸に位置する。鳶尾山の続き幣山の北側で、水田耕作には恵まれない土地柄である。
 紙漉きの起源は、荻野山中藩が藩札などの御用紙を漉かせたことに始まるという伝承もある(毎日新聞社『手漉和紙大鑑』)。また、成井文左衛門が寛政年間(1789〜1800)に信濃国で製紙法を習得したことや、天保9年(1838)文左衛門の子成井文七が下野国烏山から職人を招聘し業を起こしたという説もある(『愛川町郷土史』)。製紙の工程上、楮に混ぜるつなぎとして黄蜀葵(こうしょっき・とろろあおい)の根から出る粘液を使用するが、これを「ネリ」と呼ぶのは烏山と共通であるという。ちなみに、厚木市温水浅間山では約一反のネリバタケを作っていたという(『厚木の民俗』1)。
 原料の楮は角田付近や隣接の厚木市上荻野で栽培された。技術の発達に伴い、大正6年(1917)埼玉県小川町の製紙技術を導入し、原料も小川町から取り寄せるようになる(『手漉和紙大鑑』)。
 大正初期から昭和10年頃までの最盛期には35〜36戸で障子紙や紙帳(しちょう。養蚕などで保温のために使用する紙製のかや)、傘紙を漉いていたという。紙生産は農閑期の作業で、農家の現金収入として貴重であったが、洋紙の普及や社会生活の変化によって、従事する人が減少。唯一成井正夫家だけが、昭和60年頃まで葉書・封筒など小物を製造していた。
 神奈川県下で最後まで残った手漉き和紙の産地であったが、現在は海底和紙保存会と顕彰会の方々によって保存のため続けられているのみである。      

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