厚木の大名 <N016>

報徳仕法            伊従保美

和田傳著『二宮尊徳』扉 昭和29年(飯田孝氏蔵)
 「もしも世界の人々から、日本の農民とはいかなるものか、これこそは日本の農民だとして、いかなる人物があるかと問われたなら、尊徳・二宮金次郎を見よと、わたしたちは答えてもいいと思います。それほどこの人は、日本の農民らしい農民であり、日本人らしい日本人であったように思われます」厚木市恩名出身の農民文学作家和田傳はその著作『二宮金次郎』の中で記している。薪を背負って読書しながら歩く金次郎像はかつて小学校で馴染み深いものであった。
 金次郎は天明7年(1787)足柄上郡栢山村(小田原市)に生まれた。通称金次郎、諱(いみな)は尊徳(訓みは「たかのり」が正しいが一般には「そんとく」)。文政元年(1818)小田原藩家老服部家の財政建て直しを遂げ、理財の才を認められ、文政六年小田原藩主の分家旗本宇津家の領地下野国桜町領(栃木県二宮町・真岡市)の復興のため移住し、北関東の荒廃村復興を次々と成功裏に終え名声を高めた。
 この尊徳の復興の方法を「報徳仕法」という。その特徴は、厳密に現地調査を行なったうえで、各自にふさわしい生活の支出の限度を決め(分度)、余剰分は将来にそなえ貯えるか他人に譲る(推譲)という点である。

 小田原藩の分家で困窮極まった烏山藩の財政建て直しを図るべく行なわれたのがこの報徳仕法であった。
 烏山藩では明和期頃から城付領の村々(野州領)において農村荒廃が進行し、天保期は大飢饉にもみまわれ、享保11年(1726)に1,8774人あった人口が、天保7年(1836)には10,031人と8,743人減少、逆に借財は文化8年(1811)には9,780両余であったものが、天保7年には34,000両余に激増している(『相模原市史』二)。
 こうした窮迫から発生した農民の激しい闘争に対応するため烏山藩は尊徳仕法を導入、天保八年、家老菅谷八郎右衛門と天性寺住職円応とが先導となって、二宮尊徳が招聘された。烏山藩にとっての急務は餓死寸前の窮民を救済することであり、天性寺境内にはお救い小屋が造られて、のべ一万人余が救済されたという。
 しかし、天保8年12月仕法導入の推進者円応が、相州領への仕法導入の調査のため出張した後、厚木に流行していた悪疫にかかり死去。共に赴いた菅谷も病気がちになり仕法は停滞した。報徳仕法の「分度」は、実際上は領主収奪の制限をするので藩内には依然反対する勢力もあった。天保10年10月に報徳仕法の停廃が決まり、菅谷の隠居・追放に至った。
 天保13年、さらに行き詰った藩は報徳仕法の復法を尊徳に頼み、菅谷を中心に再開されたが、この年10月、尊徳は幕臣に登用されたため、烏山藩に専心できず復興は頓挫した。日光神領の仕法を任された尊徳も、安政3年(1856) 今市(栃木県今市市)でその生涯を閉じる。
 では円応と菅谷が報徳仕法を導入しようとした烏山藩相州領はどのような状況であったか。厚木役所から相州領十か村に対しても田畑の収穫高取調べの廻状が達せられ、報徳仕法の実施が考えられたが、飢渇を免れるための仕法が富裕な土地には不適当であるという尊徳の反対によって結局実現はしなかった。むしろ相州領へは多額の御用金を要求するようになるのである。
 報徳仕法の名声が高まると、尊徳のもとで仕法の実際を学び自ら地域の復興に努力する地主や豪農層もいた。これが結社式仕法で、幕末期には遠江国を中心に現在の静岡県・神奈川県域で活発になった。やがて報徳の思想は明治維新後国家権力と結びつき、勤労貯蓄を目指した報徳社が全国に結成された。厚木市域でも明治期に温水村春日報徳社、下津古久報徳社、戸田の己酉報徳社・克譲報徳社、岡津古久報徳社二宮社など、また厚木には報徳講も見え、昭和50年代の調査時には唯一岡田において継続されていた(『厚木の民俗』3講)。      

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