風見鶏

1997.1.1〜1997.12.15

  住民の満足度(97・1・1)

 平成8年は自治体の不正支出が問題になった年だった。公金を内輪の飲食に使ったり、カラ出張による裏金でOA機器の購入費や宴会費に当てるというものまで、さまざまな不正支出のケースが摘発された。
 全国の役人がこうしたやりくりをしていたとしたなら、不正支出を生み続ける行政システム自体を問題にしなければなるまい。これまでは慣例や既得権益、前年度実績による予算編成が罷り通ってきた。このため、いつの間にか事業の目的意識が薄れてしまったのである。目的を失い制度が疲労してくると、モラルが低下し無駄を垂れ流す。
 これからの事業は、施設をいくつつくったかではなく、それによってどのくらい住民が満足しているかという尺度が基準とならなければならない。その意味では単なる景気浮揚策としてのバラマキ型公共投資は、根底から見直す必要がある。つまり金をかけても成果が上がらない事業は、止めるべきなのである。
 三重県は「住民満足度」を尺度とした、政策課題別の予算編成を進めている。北九州市も一切の聖域を取り払った「ゼロベース予算」を導入しているという。
 その事業が住民に役立っているかどうかを図る評価システムや、予算決定のプロセスをガラス張りにすることも必要だ。厚木市のようにただ歳出の一律カットや民間との飲食を禁止するという綱紀粛正だけでは、市民のニーズや満足度は図れない。

  町村合併(97・1・15)

 山口市長が新春の賀詞交換会で、旧愛甲郡の合併を意識した発言を行なって注目された。旧愛甲郡というのは明治22年の市制町村制施行により、厚木町と三田村など1町16カ村が集まって編成された地域である。同30年、厚木市の誕生にともない、31年9月30日以降、愛川町と清川村だけが残存し、今日に至っている。
 わが国の地方制度が確立したのはいつごろだろうか。明治23年以来、日本の地方制は47都道府県と3千を越える市町村によって構成されている。しかし、この制度も百年以上が経過して制度疲労が見えてきた。分権化、情報化、国際化、少子高齢化などの進展によって、地方行政もより質の高い需要が発生してきている。
 これまでの数千人単位の小さな自治体ではこの要請に応えることが出来ない。つまり現在の自治体はより広域にわたる、政策調整と財政および人的資源の蓄積が求められているのである。道州制や府県廃止論など、権限委譲をめぐってさまざまな論議もあり、昨今は都道府県と市町村の中間に当たる第三の自治体論も浮上してきた。政府が提唱する「中核市」や「広域連合」である。
 京都学園大学経済学部教授の波多野進氏は、21世紀の地方自治体の規模を、「自動車交通の行動範囲を考慮しておよそ30キロ圏、人口規模にして20万人から50万人規模が標準的サイズとして考えられる。それは日本をほぼ300から400程度の単位に分割することを意味している」と述べている。
 分権の受皿として、府県制と単位自治体の規模の再検討を含む徹底的な制度改革が行なわれなければならない。21世紀へ向けた「地域連合」の時代が確実に訪れてきているのである。旧愛甲郡の合併やいかに。山口市長の発言をきっかけに、こうした議論が大いに沸騰することを望みたい。  

  行革の特効薬(97・2・15)

 地方分権と行財政改革について調べていたら面白いことに気がついた。それは市町村の合併が、分権の受皿として最適で、しかも行財政改革の特効薬になるという話である。
 明治22年4月、政府は江戸時代の幕藩体制に代わる新しい行政システムとして府県制と市町村制を採用した。その結果、全国の町村数は5分の1に減少、愛甲郡も従来の41村から1町16村になった。
 戦後の昭和28年にも町村合併促進法が施行され、日本の地方制が大きく変わったことは周知の事実である。厚木も1町7カ村が合併して、現在の市域が出来上がったのである。
 合併は行財政能力に乏しい弱小町村を適正規模に再編して財政力を高め、事務の合理化をはかるとともに住民福祉の向上をはかるのが目的である。もちろん、首長や職員、議員の定数が減ることはいうまでもない。外郭団体などの統廃合も一挙に進む。しかも合併により、住民ニーズに合った効率的で質の高いサービスを提供することが可能になるのである。
 情報化、国際化、高齢化の進展によって、地方自治のニーズが多用化し、より効率的で質の高いサービスが求められてきている。しかも地方分権は行財政改革と表裏一体だ。小規模市町村では介護保険の導入など多様化するニーズに対応しきれなくなるし、ごみや消防など広域連合処理にした方が効果的な場合もある。
 われわれ住民はだれでも行政改革については疑心暗鬼である。せいぜいが無駄を省き歳出を削減する程度でしかないと思っている。分権の受皿といわれている中核市や広域連合でも行革は進まない。よりドラスティックに行財政改革を断行出きる道は、合併しかないであろう。

  厚木のことは厚木で?(97・3・1)

 東京都の北区が、学校給食から出る生ゴミをリサイクルし、友好都市を結んでいる群馬県甘楽(かんら)町に堆肥として送る運動を始めている。
 堆肥は作物の有機栽培に利用され、取れた作物は産地直送の有機野菜として北区で売られ、区民の食卓に並ぶという。しかも北区では主婦や子どもたちが折りにふれ甘楽町を訪れ、作物の収穫体験を行っている。最近ではこの有機野菜を北区の学校給食に使おうという話も出ているそうだ。
 これは生ゴミを通して、 @リサイクルA有機農業B収穫体験 C産地直送D広域行政に取り組んでいるというまちづくりの見本のようなものである。特に生ゴミのリサイクルを区外に求めたところに大きな意味がある。
 日本では昔から同属意識が強く、これが国や地方を形づくってきたことはいうまでもない。自分たちのことは自分たちでといういい意味での同属意識はあるが、国際化や情報化の進展によってそうした形が除々に崩れ始めている。世界で多様な民族が融合し、新たな活力を生み出そうとしている時、日本が同属国家を前提にした将来像をいくら描こうとしても無理だろう。
 地方についてもまったく同じことがいえるのである。北区も甘楽町もまちづくりの発想を外部の人に求めたときから新しい活力が生まれた。「厚木のことは厚木市民で」という発想はもうやめた方がいい。

  勤勉手当(97・3・15)

 3月10日行なわれた厚木市議会の一般質問で、徳間和男議員が常勤・非常勤特別職の勤勉手当の問題を取り上げていた。徳間議員は市長や議員の期末手当には勤勉手当が含まれており、これは極めて不当な支給だから、県下の自治体に先駆けて廃止すべきであると指摘していた。
 特別職の期末手当は、条例により支給割合が規定されているが、この中に勤勉手当が上乗せされているというのである。自治省や県市町村課は、特別職に勤勉手当を支給するのは妥当でないという解釈をしており、過去にはそうした行き過ぎは改めよという通達もあった。だが、この通達を無視して特別職に勤勉手当を支給している自治体はことのほか多い。
 今から27年ほど前になるが、当時、市会議員だった花上義晴さんが、議会で常勤特別職の勤勉手当をやりだまにあげたことがある。それは厚木市は自治省通達にもとづいて常勤特別職への勤勉手当の支給を廃止したにもかかわらず、現実に支給していたため、共産党の地引正議員と監査請求を行ない、それまで支給されていた勤勉手当を返上させたのである。
 特別職に勤勉手当を支給する根拠はまったくない。花上さんによると、過去に厚木市は条例で廃止したという。にもかかわらずこれがいつの間にか復活していたのである。当時は、議員にまで支給されていなかったので、今日の事実には花上さんも驚いていた。
 行革といっても、こんなことが何の疑いもなく、平気でまかり通っている。あきれた話である。

  市民の現実認識(97・4・1)

 平成8年7月、厚木市が行なった市民意識調査によると、全体の7割の人が定住志向を持っているが、逆に厚木から転居したいという人も約1割いることがわかった。転居したい理由は、交通の便が悪い、通勤、通学や買い物に不便、保険福祉施設が不十分などで、自然環境や人間関係が悪いというのを理由にあげる人もいた。
 厚木市のイメージについては、「都市と田舎の二面性を持つまち」と「山や川など恵まれた自然環境を持つまち」がともに約五割で、「花火大会・鮎・温泉のあるまち」も3割を占める。これに対して「研究学園都市」というイメージを持つ市民は四%で、ことのほか低いことがわかった。
 将来の都市像については「自然環境の豊かな都市」「居住環境・生活環境の整備された都市」がともに7割以上。「保健福祉都市」の4割がこれに続く。これに対して「国際性豊かな都市」約8%、「高度情報都市」約5%と驚くほど低い。市の必要施設として要望が高いのは、「病院・診療所」「ごみのリサイクル施設」「生涯学習センター」である。いつの時代でも市民は現実感覚や生活感覚に鋭い。
 厚木市は平成10年度からスタートする新総合計画の策定に取り組んでいる。市民の現実認識や要望に、まちづくりの夢をどうプラスさせるかが、新総合計画の練りどころだろう。市民要望だけの言葉の羅列に終わるか、夢のある計画に仕立てるか。これによって、山口市長の一期目の評価が決まる。

  ティーボの理論(97・4・15)                            

 厚木市の市民意識調査で、約1割の人が厚木から転居したい意識をもっており、逆に市民の7割が定住志向をもっているという。
 1954年にアメリカのチャールズ・ティーボという学者が「足による投票」という有名な理論を発表した。それは個々の住民は自分にとって最も好ましい公共サービスを提供してくれる自治体を、自由に選択することできるという考えだ。
 例えば、文化の香り高い市、福祉が充実している町、良い病院がある市、自然の多い村、交通の便利な市、固定資産税や国民健康保険料の負担が低い町などを、われわれ住民は自由に選んで住むことが出きるというのである。 
 住民はそうした選択を「足による投票」で実行出きるのである。つまりそこの自治体のサービスが気に入らなかったり、負担が高かったら、もっとサービスのいい他の自治体へ引っ越しをすれば良いということになる。
 このティーボの理論は一面ではまったくの正論だ。厚木市民の1割が抱いている「他の自治体に転居したい」という意識も、このティーボの理論で十分に説明されるのである。この考えを詰めていくと、都市は豊かな住民が集まる自治体と、貧乏人が集まる自治体とに分化されてしまう危険性があるだろう。だが、市民の就業先や家族構成、所有する不動産などさまざまな理由によって、現実にはティーボの理論のようには進まない。
 資本主義や市場経済と同様に、地方自治体も不均等に発展する。地域の不均等発展が引き起こしている弊害をどのように排除し、自立していくかが自治体に課せられた課題であろう。「イヤなら引っ越せば良い」という逆ティーボの理論を振りかざす自治体だけにはなりたくないが、「厚木から転居したい」という考えを持っている1割の市民意識を、為政者は気にならないのだろうか。

  倫理問題協議会(97・5・15)

 厚木市議会が先の入札妨害事件に関して、超党派の議員9人で構成する「倫理問題協議会」を発足させた。制度、倫理の面から議会の信頼回復に取り組むのだという。議員と役人との関係は本来どうあらねばならないのだろうか。昔から有権者は政治家に強く、政治家は役人に強い。そして役人は有権者に強いという関係がエンドレスなものとして指摘されている。
 行政も議会も運用するのは人間だから、そこには持ちつ持たれつという関係が生ずるのは避けられない。議員と役人という立場の力関係もある。そこに貸し借りや人情、はては威圧、脅しといった関係が生まれてくる。議員と役人がいっぱい飲んだりして、場合によっては職務を越えた付き合いに発展する場合もあるだろう。そうした人情の機微を否定するものではない。
 しかし、正義や公正さより、人情や力関係が優先されるようになったら、政治や行政は良くならない。それには役人も議員も同じポストに長くつかないことである。銀行や警察幹部が1年で交代するというのは、事故や不祥事を未然に防ぐための人事であろう。政治家も3期以上はやらないとか、毎年家族を含めた資産を全部公開するとか、リストラを断行し思い切って定数を削減するとか、何らかの改革が必要だ。もちろん、リストラ自体は議員の不祥事を防ぐことにはつながらないが、有権者の怒りや心情としてこうした意見が出てくるのを誰も止められない。
 今回発足した「倫理問題協議会」が、どのように議会の信頼回復に取り組むのか、単なる精神論で終わるようでは、議員や議会の改革は進まない。

  東海道新幹線新駅(97・6・1)

 東海道新幹線新駅の候補地として、「平塚」「寒川・茅ヶ崎」「綾瀬」の3カ所が浮上してから、新駅誘致問題がにわかに活気を帯びてきた。平塚には若手経営者や議員などで構成する「新幹線湘南新駅応援団」なるものが発足して、活発な誘致運動を展開しているそうだ。先頃も15万人の署名を集めて岡崎知事に陳情を行なった。  この応援団の特徴は、太鼓や笛を鳴らすばかりでなく、調査データに基づいた誘致運動を繰り広げていることだ。新駅の候補地は、伊勢原、厚木の境界付近にある大神地区。ここは調整区域であるため用地の確保が用意で、東名厚木インターに接続する国道129号線との接点になるなどを選定利用に上げている。
 湘南新駅の効果としては、2015年に約1万2000人の利用者が見込めることと、同時期に湘南・県央地区に4万8000人の人口増が見込めるという。また、200億円を要する新駅建設や駅前地区の開発、新交通システム、住宅整備を含めた事業投資の総額は、4240億円となり、これによる経済波及効果を1兆4930億円とはじき出している。小田急本厚木駅やJR平塚駅とは、LRT(低床式省エネ路面電車)でアクセスするという。
 この応援団、厚木、伊勢原両市と一体となった運動を繰り広げていきたいというが、なぜか両市の盛り上がりはいまひとつだ。それは、湘南新駅応援団が予測している経済効果を、厚木、伊勢原市民がそれほどのメリットとして受け止めていないからである。これは経済界もまったく同じである。これを認識の甘さ、ズレという。

  勤勉手当 2(97・7・1)

 厚木市6月定例市会に徳間和男議員から出されていた「平成9年6月期末手当支給決定処分に関する意義申し立て」について、議会は「意義申し立は条例の改正を必要とするものであり、しかも市長は現行規準通りに支給したもので支給を受けたものは何ら不利益を被っていないので却下する」という市長への答申を議決した。早い話が条例通りやっているし、だれも損した人はいないので、処分の不服にはなじまないというのである。
 意義申し立ての内容は、特別職(議員)に支給された期末手当には、勤勉手当なるものが含まれているため、その部分の支給を取り消せというものだ。
 市の給与条例によると、特別職の期末手当は3月が100分の50、6月が100分の220、12月100分の250となっている。ちなみに一般職は3月100分の50、6月100分の160、12月100分の190である。6月と12月は特別職が一般職より100分の60多く支給されている。市の職員課もこれが勤勉手当の上乗せ分であると明言しているという。
 だが、条例で定めてあるため、市長は上乗せ分の支給を取り消すというわけにはいかない。すでに処分もされており、誰も不利益を被る人はいないのだから、意義申し立をしても処分の不服にはなじまないという結論になるのである。
 問題は勤勉手当分だと指摘されている100分の60についての解釈である。徳間議員によると、市の職員課もこれが勤勉手当の上乗せ分であると認めているという。自治省の給与課も県の市町村課も、特別職には勤勉手当を支給してはならないという見解をとっている。100分の60を支給する合理的な根拠はなにもないのである。
 それならば条例を改正する必要があるだろう。だが、徳間議員を除いて異議申し立てをする議員は1人もいない。誰も損した人はいないから、自分たちに都合のいいものはそのままにしておこうというのは、あまりにも虫のいい話ではないか。議員は不利益を被ってはいないかも知れないが、税金を使われるわわわれ納税者は明らかに不利益を被るのである。

  すわり族(97・7・1)

 「すわり族」あるいは「すわり込み族」という人たちが路上に出現する。歩道や駅前広場、縁石、コンビニの前、公共施設の階段などに座ってたむろする少年少女をそう呼ぶのである。最近、厚木でもこうした人種が出現するようになった。
 戦後、世相の移り変わりにともない、若者たちの行動や生き方を象徴的に示す「族」と呼ばれる人種が次々に出現した。56年には既成のモラルを打ち壊した「太陽族」、また銀座を「みゆき族」と呼ばれる若者が闊歩した。当時、オートバイを乗り回したカミナリ族は、その後「暴走族」に名前を変え、60年代の後半には、無気力な都会乞食「フーテン族」が新宿界隈をたむろし、反体制自然主義者は「ヒッピー族」と呼ばれた。
 そして70年代後半には、派手な衣裳に身を包んだ「竹の子族」が原宿に出現して、私たちを驚かせたのである。この「族」と呼ばれる人種は若者ばかりでなく、「くれない族」や「窓際族」と呼ばれる大人の世界にまで出現、社会問題にもなった。
 特徴的なことは、こうした若者たちは、それぞれに皆何らかのメッセージを発し、身なりや衣装も個性的だった。ところが、「すわり族」は、どうもこれまでの「族」とはちょっと違うような気がする。やや乱暴だが、無目的で周囲も気にならず、ただ座っているだけという子どもたちのように見える。
 子どもたちはいつごろからメッセージを発しなくなったのだろうか。無表情、自分本位、意思決定が出来ない、耐性に乏しいと指摘される現代の子どもたち。満足化社会の中で自分探しさえも出来ないでいる。
 子どもたちはどうしたら言葉によるメッセージを発してくれるだろうか。

  本物を教えること(97・8・1)

 『子どもが教えてくれたこと』の著者で知られる長崎総合科学大学の広木克行教授が、神奈川県中小企業家同友会県央相模原支部の招きで講演した。広木教授は「今の子どもたちは本物にふれていない、本物をあまりにも知らなすぎる」と指摘、この欠落がいかに子どもたちの人間形成に大きな影響を及ぼすかと説いていた。
 たとえば、子どもたちは昆虫についての知識は驚くほど豊富だが、実際に飼育出きるかというと出来ない。つまり子どもたちは文字や写真、映像などで昆虫に関する驚くほどの知識を身につけているが、本物にふれたことがないので、その対応が分からないのだいう。
 日本では小さいときから「促成栽培式」の教育を行なってきたから、「心で受け止め、頭で理解する」能力が身につかず、「心で受け止めずに、頭だけで理解する」子どもたちが増えている。だから人の苦しみや悲しみ、喜びを心で受け止めることが出来ないのである。
 人間はまず最初に体を育て、心を育て、感性を育て、そして知識と文字を教えていくべきなのに、戦後の教育はこの発達の順番をひっくり返してしまった。「徳育」が崩れ、次に「体育」が崩れ、そしていま正に「知育」までが崩れようとしている。子どもたちの人間形成のために、大人は何をしなければならないのだろうか。それは「偽物や紛い物ではなく、本物を子どもたちに教え、体験させる」ことである。

  高岡さん北朝鮮へ(97・8・15) 

 「国際交流は子どもの時からアジアの会」の高岡良助さんが、7月16日から9日間、食糧などの支援物資をたずさえて北朝鮮入りした。これまで、同国への食糧支援は政治的な駆け引きに利用されたり、軍や労働党幹部などの一部に独占されているという情報が伝えられていた。
 高岡さんによると、NGOの支援物資は、ほぼ目的地に届いているし、取材も思うように出来たそうだ。しかし、政治体制の硬直化は想像以上のものであったという。高岡さんは元山に着くなり、受け入れ先の政府の監視員から「南のスパイ」よばわりされたという。これにはさすがの高岡さんも驚いて大喧嘩になった。
 「子どもたちが飢えて苦しんでいるのに、政治体制やイデオロギーを論じている暇はない」というのが高岡さんの言い分だ。高岡さんの迫力に圧倒されたのか、監視員は以後細かいことは言わなくなり、希望する目的地に99%行くことが出来たという。
 高岡さんは栄養失調の子どもたちが大勢いるのを見て、大きなショックを受けた。食糧不足による飢餓は想像以上で、配給は6月でストップ、子どもたちは栄養失調で痩せこけ極貧の生活を強いられていた。平壌より100キロ南の沙里院の保育所では、子どもたちに1日2個半(200グラム)のお握りの配給が目標だが、現在では1個も満足に食べられない状態が続いているという。作物は今年も全土にわたって不作で、米150万トンが不足すると見られている。
 帰国後、高岡さんは休む間もなく第二陣の支援活動を開始した。今度は支援先を特定しての支援活動である。水害対策委員会との間で、沙里院の児童保育所への支援了解を取り付けた。9月下旬には沙里院の子どもたちに4万食分の食糧を送るという。
 高岡さんの支援理由は実に明解である。「子どもは生まれる親や国を選ぶことが出来ない。時代に翻弄されている子どもたちに援助の手を差し延べて欲しい」。
 高岡さんの情熱と行動力にはいつも頭が下がる。

  監査委員(97・9・1)

 自治体の中に監査委員制度というのがある。厚木市も8月の臨時議会で、市長提案による議会選出の監査委員を選任した。監査委員は自治法にもとづいて設置されるもので、厚木市の場合は2名である。仕事は市の財務の執行にとどまらず行政全体について監査し、市長や行政委員会に報告するとともに、改善意見を述べることだ。
 ところが、この監査委員の実際の活動は極めて低調である。それは「官官接待」を追求した市民オンブズマンが、公金の不明朗な使途ばかりでなく、監査委員の機能不全を指摘したことでも象徴的に示されている。
 監査委員の活動はなぜ低調なのか。これは以前から疑問に思っていたことの一つであるが、それは選任方法に問題があるからである。市長が議会の同意を得て選任する監査委員は、自治体幹部OBが大半を占めるし、議会選出の監査委員は議会内の役職配分で決まるケースが多い。過去、厚木市の場合も一貫してそうであった。
 したがって、自ら仕えた市長のもとで監査に当たることなど決して珍しいケースではないし、自分の支持者が選任される場合は、そのほとんどがノーチェックでさえある。これでは中立性が保証された厳格な監査はとうてい期待出来ない。 かつて、脇嶋市議は議会選出の監査委員の報酬は不要であるという発言をして衆目を集めたことがある。監査はもともと議員の仕事であるから報酬をもらうのはおかしいというのである。非常にごもっともな発言で、脇嶋議員は報酬を返上するのかと思ったら、言うだけでこれまでの議員と同じように報酬を受け取るという田舎芝居的なパフォーマンスを演じて、うんざりさせられた。脇嶋議員の言うように、議会にはもともと行政全体を監視しチェックする監査機能がある。そうだとすれば議会選出の監査委員などは必要ではない。役を引き受けておいて報酬を返上するなどというレベルの話ではないのだ。分権・行革の時代に自治体の監査機能を強めるには、まず専門性と中立性を持った人材を選出することから始めなければならない。それが出来ないなら、市民オンブズマンに期待するほかはない。

  高齢化とまちづくり(97・9・15)

 「人生50年」とは、とうの昔の言葉である。日本人の平均寿命は、いまや75歳を越えた。特に女性は男性より長生きで80歳を越えている。
 昔の王侯は不老不死を求めて果たせなかったが、今は医学の進歩でかなりの高齢まで生きていけるようになった。
 ところが高齢化は人間を幸せにしたはずなのに、さまざまな問題を投げかけている。それは収入、仕事、生きがい、一人暮らし、健康管理、病気治療、介護などの問題だ。このままでは年金も施設もパンクしてしまう。
 一番難しいのが病気治療と介護の問題である。これには多くの専門家と人手を必要とする。特養ホームや老人病院、その中間的施設である老健施設が除々に出来つつあるが、在宅介護の前途は一向に明るくない。
 高齢者の所得格差も大きな問題である。また、老夫婦だけの世帯や1人暮らしの老人が、社会全体の中に溶け込んで生活できる環境をどうつくっていくか。高齢者の知恵や経験をどう社会の中に活用していくのかという問題もある。
 地域のコミュニティーを作っていくには、高齢者の存在が不可欠である。カラオケやゲートボールが高齢者の生きがい対策という時代ではない。高齢者から子育てや教育、文化や生活の知恵を伝承することは、健全な社会発展の原動力になる。高齢化社会とは異なる世代の人々が何層にもつながって共生していくことであるのだ。われわれはこの最も大事なことを忘れてきた。

  政治家と官僚のレベルダウン(97・11・1)

 いま日本の政治に求められているのは、中央も地方も生産性の高い政治である。巨額な累積赤字と高齢少子社会を前に、21世紀を見据えた大改革が期待されているのである。
 だが、いまの政治家や官僚に、改革を求めてもその可能性はほとんどない。それは「火だるまになって取り組む」と決意した、橋本行革の行方が危うくなってきたことでも証明される。
 かつて第二臨調の土光敏夫さんは、「増税なき財政再建」を主張して、「自分の命と引き換えても財政再建をやる」と明言した。経営者土光敏夫・人間土光敏夫の感覚からすれば当然であろう。それ以降、国の将来を思って命がけで改革に取り組む人がいなくなった。
 選挙の投票率が上がらない理由は、無能で役に立たず、改革も出来ない政治家には期待しないから投票に行きたくないという意思の現れである。これは官僚についてもまったく同じだ。
 今日、職員や議員の定数削減論は、コスト削減論から来ているわけではない。もちろん、そうした減量経営の視点から論じられなければならないのは言うまでもないが、コトの本質は政治家や官僚のレベルダウンから来ているということを認識しなければなるまい。役に立たない議員や職員の数は半分に減らせという論法なのである。
 日本はいま政治家も官僚も、一流企業の経営者でさえ頼りにならない国になってしまった。だが、政治家や官僚をしのぐ国民はごまんといる。もう政治家や官僚には頼るまい。そう国民は決意して行動をおこすべきだろう。

  こんな課いらない(97・11・15)

 国も地方も行財政改革の大合唱だが、そのわりには一向に内実のある改革案が出てこない。厚木市の中にも本当にこんな課や事業が必要なのかと疑問に思うものが随分ある。
 たとえば教育研究所や同和対策室は本当に必要なセクションなのだろうか。独立した組織として置かずに、どこかの課の下に置いてもいいのではないか。農業委員会や監査委員会、選挙管理委員会の職員数はどうか。多忙な時だけ組織を編成することは出来ないのか。赤字の食肉公社については広域的な再編が実現するまで、5年間も継続するというからわれわれの常識ではとても考えられない。民間企業なら有無を言わずに廃止だろう。
 また、公務員の期末手当を底上げしている役職加算は、バブル経済の時期に民間の好景気に見合った分を上乗せしたもので、これなどは今日、即刻廃止すべきものであるが、そのような考えは一向に出てこない。
 同市では職員定数については、平成11年度以降の5年間で5%の削減につとめるとしているが、これも何故11年度からなのか、市民から見ると全く理解出来ない話だろう。
 一方、課の機能が十分に生かされていない部署もある。産業政策課などは情報化と国際化に対応した厚木市の産業政策を、大胆に分析して提示する必要があるのに、スタッフさえ満足でない。女性政策課の仕事は、ただセミナーや講座を開くだけのものだろうか。
 改革の推進には採点が必要である。厚木市も民間同様に事業の効果を採点する「事業評価表」を導入してはどうだろうか。その結果、不要なものはどんどんリストラすればいいし、必要なものは思い切って組織を充実すればいい。

  グループホーム「ひまわり」(97・12・1)

 地域社会で一人暮らしや痴呆などの障害のあるお年寄りを対象に、ボランティアに支えられた24時間の生活空間である「第二の家族」をつくろうュ―このほど市内三田に、厚木では初めての市民参加によるグループホーム「ひまわり」が開所した。
 今年の六月、市内の福祉グループ「ラポールあつぎ」の呼びかけに、厚木や伊勢原、海老名、相模原、町田、愛川などに住む女性が参加して「つくる会」を結成、学習会を重ねながら資金集めのバーザーなどを行ない、準備を進めてきたという。
 今回の「ひまわり」は、会員の家族が中古アパートを持っていて、「空き屋になっているのなら、ぜひ使わせて欲しい」と借り受けることになったそうだ。借りた2DK2室のうち、1室をグループホーム、あとの1室を会の事務所にしてミニデイサービスやショートスティ、地域作業所、ホームヘルプやコーディネート活動の場に利用するという。
 ホームへの受け入れ人数は3人で、いまのところ自立して生活できる65歳以上のお年寄りが対象である。入居金以外の食費、ガス、水道、電気、生活費は個々の自主管理が原則だ。介護などの生活支援サービスはラポール厚木の会員が有償でお手伝いする。
 会員たちに共通しているのは、自分の老後のことを考え、いまのうちから介護やホームヘルプ、共生の住まいづくりを体験しておこうという気持ちである。行政からの補助金もない文字通り市民による市民のためのグループホームである。この老人ホームでもない、アパートでもないケア付共生住宅は、高齢化社会に向けた地域の一つの老後の在り方を示してくれるように思える。会員たちの奮闘を祈りたい。

  公的介護保険と市町村合併(97・12・15)

 公的介護保険法が国会で成立した。2000年4月から65歳以上を対象に、介護要員を家庭に派遣する在宅介護サービスと、特別養護老人ホームなどに受け入れる施設介護サービスを行なう。
 費用の一部は本人負担、残りの九割は保険と税金でまかなう。保険料は40歳以上の国民から月額2500円を徴収する。保険料を払えない低所得世帯や、要介護認定を受けられなかった人の苦情をどうするかなどの課題も残されている。
 この介護サービスを担うのは市町村だ。さが、ソーシャルワーカーなどの認定に必要な人材が不足しているほか、寝たきりの高齢者が入所する特別養護老人ホームの整備が遅れている自治体も相当ある。厚木市はかなり進んでいる方だが、市町村によっては地域格差がかなり出てくるだろう。心配される「保険あって介護なし」という事態である。
 こうした地域格差を防ぐため、自治省は地方分権の受皿として期待されている「広域連合」を積極的に検討するよう市町村に働きかけるという。だが、分権の受皿整備と行財政改革など地方の構造改革を抜本的に推進する方法は、広域連合や中核市といった手法では弱すぎる。
 地方の再生と自立した多機能型の都市づくりを整備するには、明治以降3度目の市町村合併しか道は残されていない。介護保険は地方の構造改革の在り方も同時に問うているのである。

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