風見鶏

 2005.01.01〜12.15

 三セクの破綻(2005.12.15)

 第三セクター「厚木テレコムパーク」が、4期連続の債務超過に陥ったため自主再建を断念、11月29日横浜地裁に民事再生法の適用を申請した。負債総額は約77億円にのぼるが、5月から導入の減損会計の適用で累積損失は100億円を超える。今後、金融機関からの借り入れの減免や減資手続きなどで再建を進めるという▼再建にあたって大事なのは、今日の破綻を招いた原因と経営責任を明らかにすることであろう。社長以下、現経営陣の責任は当然であるが、これまで株主と経営陣がもたれあうという無責任な意識の下で経営されてきた経緯を考えると、筆頭株主であり役員を送り出してきた市の経営責任や政策責任は免れるものではない。これまでの財務会計上の処理が適切であったかどうかも総点検する必要があろう▼2つ目は再建後の会社の事業展開とコンセプトをどう構築するかということである。同社は企業誘致のほかに、マルチメディアという高度な情報資源を、いかにして市民や企業に低廉でかつ合理的に配分するかというシステムをつくり出す使命を持っていた。これが看板倒れになっているが、再建後、この看板を外して不動産屋になるのか、それとも新たな命を吹き込んで新しい事業展開を図るのかという選択である▼ここはやはり三セクを作ってまで事業展開を考えてきた意味、その使命、そして第三セクター方式という会社経営の在り方を、根本から考え直す必要があろう。

 神の見えざる手(2005.12.01)

 市場経済は競争原理が働くから、コストと品質の良い製品が開発され、需給のバランスを保つというのがこれまでの常識である。しかし、耐震強度偽造問題は、企業が利潤追求に走り、放任しておくと、粗悪品や欠陥商品を故意に作るということも証明してしまった▼市場経済、自由競争の背後には「神の見えざる手」が存在する。西欧では市場が弱肉強食の修羅場になろうとした時には、必ず神が救ってくれる。だから人々は見えざる大きなものへの畏怖の感情、敬虔な姿勢を持って経済活動をすべきだと行動してきたのである▼戦後、日本の経済は「和魂洋才」は駄目ということで、「無魂洋才」でやってきた。これが今日の経済的な繁栄を導いたことはいうまでもない。しかし、経済活動における倫理とか見えざるものへの敬虔な姿勢を放棄してしまった結果、さまざまな問題を生み出した▼「衣食足りて礼節を知る」とは、経済的に豊かになれば道徳や宗教も文化もおのずと成熟してくるという考え方だが、戦後の日本は、衣食だけ一生懸命になった結果、礼節のほうを置き忘れてきたのである。五木寛之氏はこれを目に見えない「心の不良債権」であると指摘している▼バブル崩壊後の不良債権処理は、実は経済活動の不良債権と同時に、日本人が忘れてきた礼節とか道徳とか企業の倫理という心の不良債権も同時に処理しなければならないのに、そうしては来なかったのである。そのつけは想像以上に大きい。

 自分らしさの壁(2005.11.15)

 前号で紹介した社会学者・三浦展さんの『下流社会』がベストセラーになっている。この中で三浦さんは「自分らしさ志向は下流ほど強い」と指摘している▼自分らしさを求める団塊ジュニア世代は、仕事においても自分らしく働こうとする。だがそれで高収入を得ることは難しい。自分らしく働けないので、結局は会社をやめてしまう。よって生活水準が低下する、そういう悪いスパイラルにはまっているのだという▼自分らしさ志向の強い人ほど自己能力感があるのが現代若者の特徴だろう。学校や学習生活以外のところで自己能力感を覚えているのである。専門家も不登校や引きこもり、ニートは、自分らしさを探している時期なのだと指摘する。確かに教育現場以外の分野で、自己能力を覚える若者から、将来優秀な人材が生まれることは否定できない▼三浦さんは、「問題なのはそうした若者が、長期にわたって見果てぬ夢を見続けていることである」と指摘している。少子高齢化・低成長下において、今後、自分らしさ志向で経済的な安定や社会的地位が得られる可能性がどれほどあるだろうか。多くがフリーターやニートで終わる可能性も高いのである▼人間は自分らしさを殺しても、我慢してでも生活のためには嫌な仕事をしなくてはならない。知識や技能、年齢、経験、職場環境などさまざまな雇用条件によって、必ずしも適材適職とはいかない。現実にはそうした人たちが圧倒的に多いのである。戦後、日本は滅私奉公から個人主義へと大きく価値観を変え、個性が尊ばれる時代を模索してきた。だが、現代の若者は、自分探しや自己発見をする前に人間自体がもたなくなってきている。過去30年以上社会の主流だった「自分らしさ」という価値観を、今後どのように考えるべきなのか。これはとても重い課題だ。

 下流社会(2005.11.01)

 経済学者の森永卓郎さんが、今後、 9割のサラリーマンが「負け組」に向かうが、年収300万円以下でも、価値観と工夫次第で豊かな生活、幸福な人生が送れると言っている▼中流が減って上と下に2極分化する階層格差が広がっている。2極化といっても中から上に上昇する人は少なく、中から下に下降する人が圧倒的に多いのだ。特に団塊ジュニアと呼ばれる30代を中心とする若者世代に下流化傾向が強いという▼社会学者の三浦展さんは、「下流とは単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲など総じて人生への意欲が低い。かれらの中にはだらだら生きているものも少なくない」(『下流社会―新たな階層集団の出現』光文社新書)と指摘している▼下流社会の若者はひきこもりがちだ。ニートやパラサイトシングルなど、社会のマイナス要因を抱える世代でもある。こうした若者に「少年よ大志を抱け」「若者には無限の可能性がある」と言っても空しいだけであろう▼ 三浦さんによると、下流の三種の神器はパソコン、携帯電話、プレイステーションだという。インターネットは、遠く離れた人々と瞬時にコミュニケーションがとれ「世界の縮小」をもたらした。だが、一方では人間が実際に出会うことの出来る他者の数を著しく減らしてもいる▼ITは瞬時にして世界各国の人々とのアクセスを可能にした。だが、ITで広い世界が狭くなったと信じ込んでいないだろうか。そう思いこんでいるのはバカだというのが、解剖学者・養老孟司さんの言う『バカの壁』であろう。三浦さんは「バカの壁は下流の壁でもある」(『同掲書』)と指摘している。

 地方制度改革(2005.10.15)

 政府の地方制度調査会が11月にまとめる答申案の骨子が明らかになった▼現行の副知事や助役を廃止して、権限を強化した新たな副知事、副市長制を盛り込んでいる。出納帳・収入役は、出納事務の電算化が進んだとして制度を廃止する。答申は12月中に首相に提出され、来年の通常国会に地方自治法改正案を提出、07年度からの施行を目指す▼副知事や助役は、首長の法的な職務代理者だ。地方分権の時代は、助役が単なる首長の補佐役に止まっていて経営がうまくいく時代ではない。太田市や大和市のように助役を置かない自治体もあるが、助役は政策ブレーンで官僚機構のトップである。人選を庁内だけに求めず、専門家を起用して権限を持たせ、政策遂行を委任すべきだろう▼これと合わせて管理のための管理、調整のための調整というポストも廃止すべきである。次長や課長補佐などという中間管理職なども全廃して、中間管理職の仕事の代わりにチームのリーダーやコーチ役にしたらどうか▼また、主要部長に執行役員制を導入して特別職とし、権限と責任を与え、2年契約の年俸制にしたらどうか。人選も庁内モンロー主義にこだわらず、幅広く内外から求める▼地方分権の時代は首長と5〜6名の執行役員、副市長を政策ブレーンとし、市長を中心とするキャビネットを形成するなら、大統領的な首長像がより明確になるだろう。今が改革のチャンスなのである。

 郵貯をナショナルミニマムの整備に活用せよ(2005.10.01)

 郵政民営化は国民の大切な資産を民間向け資金として活用することであるが、反対論者は、選挙でも過疎地の郵便局がなくなるという郵便局存否論に終始していた。事の本質は340兆円にのぼる郵便貯金をいかに有効利用するかという点にあるだろう▼これには2つの考え方がある。1つは市場化によって資金をハイリスク・ハイリターンの金融市場に放出すること。もう1つは郵便貯金をある程度の公的利用のもとに置き、市場競争の中では実現困難な「将来の社会的基盤の整備」に振り向けるという考えである。前者は米国主導のグローバルな市場競争への適応、後者は来るべき人口減少社会、低成長社会へ向けた新たなナショナルミニマムへの活用である▼かつてグローバル市場主義は、民間銀行による無節操な融資、不動産会社による無鉄砲な投資をさそい、バブル崩壊を招いた。その後、勝ち組み負け組みの2極分化、団塊ジュニア世代の下層化、400万を超すフリーターと80万ともいわれるニート、パラサイトシングル、高齢化による介護者の増大、年間3万人を超える自殺者問題などを生み出した▼確かに民への流れは経済の活性化につながる。しかし郵貯資金が国民に望ましい利用に付されるという保証はない。国の財政が破綻寸前に追い込まれている現在、郵政民営化は、ナショナルミニマムの整備に公的資金を利用する日本に残された最後の砦のように思える。

 続く熱狂的等質化現象(2005.09.15)

 小泉内閣が誕生して以来、「ハーディング」と呼ばれる日本人の群衆行動が続いている。それは小泉内閣誕生時に評論家の内橋克人氏が指摘した「熱狂的等質化現象」といわれるものだ。今回の総選挙の結果もそうした現象に支えられたように思える。朝日新聞紙上に識者が面白い寸評を載せているので紹介してみる▼「経済的弱者が政策的に手を差し伸べてもらうことよりも、ぶっ壊すことを訴える小泉首相に希望を見出した可能性がある。単純なカリスマに自分を同一化して、この人だったら何かやってくれるかもしれないと」(東大助教授の本田由紀さん)▼「小泉劇場の政治的な演出の勝利だ。ただ大衆も郵政民営化の中味を理解して一票を投じたとは思えない。小泉さんがタクトを振る姿を面白がっただけ。今後、別の面白い演出が登場すればすぐ去ってしまうだろう」(劇作家の唐十郎さん)▼「小泉さんは大衆の憎悪を公務員に向けさせた。大衆の攻撃性を扇動するやり方は一歩引いてみると稚拙な手法だが、それにだまされるほど社会は閉塞している」(人材育成コンサルタントの辛淑玉さん)▼ 識者が示した国民意識の底流にあるのが熱狂的等質化現象であるように思える。個としての自立を十分に果たしているとはいえず、市民社会も未成熟なままの日本では、何か事が起きると、人びとは同じ方向をめざして走り出し、自分の信条や情感までも他の人と等質化させることに懸命になる▼小泉さんは、この大衆心理を選挙でも上手く使ったのである。

 三位一体改革(2005.09.01)

 「地方にできることは地方に」との原則に基づき、06年までに補助金について約4兆円の廃止・縮減、交付税を見直し、地方へ(総額3兆円の)税源を移譲する「三位一体改革」を進める▼03年9月小泉首相が行った所信表明演説の内容だ。その後、公約した三位一体改革はどうなったのだろうか。昨年は知事会に補助金廃止リストを作らせておきながら、政府がよってたかって反対した。税源移譲は2兆4千億円まで積み上がったが、6千億円の対象はまだ未定である。地方交付税は05、06年度は財政運営に必要な総額を確保するというが、見直しはほとんど進んでいない▼この交付税の見直しは、地域の景気回復が遅く税収が伸びない自治体にとっては深刻な問題だ。それに地方は補助金がカットされたからといって事業を廃止するわけにはいかない。権限ばかり地方に移っても、裏づけになる税源が伴わなければ、負担になるだけである▼民主党は約20兆円の補助金のうち18兆円を原則廃止、3年以内に5・5兆円の税源移譲や一括交付金化(12・5兆円)するという。一般財源化といっても実現への道筋が見えない。民主党は国と地方の財政調整の基本設計くらいは示すべきだろう▼三位一体改革は、財政面での地方分権を進める第一歩である。郵政民営化突出選挙が公示されたが、自立できる地方を創造するためには、地方分権や三位一体改革についても各党のマニフェストをチェックしたい。

 鮎まつりの出し物(2005.08.01)

 厚木鮎まつりに新しい出し物がお目見えした。野外音楽劇「夕焼け小焼け物語」だ。会場となる中央公園には仮設舞台を設置、両翼150メートル、上下8段で2000人を収容できる仮設スタンドを設置した。出し物は中村雨紅にちなんだミュージカル「夕焼け小焼け物語」である▼4000人の市民ボランティアが、準備から舞台への出演、大道具、小道具、衣裳などの裏方まで総出で参加する。脚本やキャスティングも一般公募した。500人の出演者は地元の音楽家や舞踊家、演劇プロデューサーの指導をうけ、1年前から練習を続けこの日の舞台に備えた▼1時間半の間に30場面が繰り広げられ、シナリオ構成の素晴らしさ、ダイナミックな唄と踊り、証明装置と音響は夜の闇の中で幻想的な空間を演出、人々の心を魅了して観客の目を感動的な舞台に釘付けにする▼この野外音楽劇は、厚木のふるさとを新しく創造していこう、郷土愛を深めようと作られた芸術作品。 鮎まつりの期間、3日間連続して上演される。野外音楽劇は4年後、7年後の作品まで決まっている。4年後は「厚木小江戸物語」、7年後は「飯山白龍物語」である▼(波田陽区のギター侍風に)「ホントに素晴らしい」って言うじゃない。だが、これは幻の出し物でした。「残念!」。伝統ある鮎まつりも今年で59回を数える。そろそろ新たな仕掛けを期待したいところだ。

 エコマネーで生ゴミ処理が本格稼働(2005.07.15)

 厚木なかちょう大通り商店街が取り組んできた「エコマネーを利用した生ゴミリサイクル事業」が本格稼働した。家庭から出る生ゴミをエコマネーと交換してたい肥化し、その肥料を近郊農家の有機栽培に活用してもらうもので、収穫した有機野菜は商店街を通じて消費者に販売される▼「キッチンリサイクル」と名づけられたこの事業は、同商店街が環境省の支援を受けて、2年前から実証実験に取り組んできたもので、商店街の活性化と地産地消の循環システムの構築を目指すのが目的だ▼同商店街はこれまでにも「環境にやさしいエコ商店街」に取り組んできた。平成13年、商店街に空き缶・ペットボトルの回収機を設置、利用者が空き缶やペットボトルを入れると加盟店で使えるサービス券があたる事業をスタートさせた▼また、15年2月には風力・太陽光発電を利用した全国初の「ハイブリッド街路灯」を設置した。街路灯には風車とソーラーパネルが取り付けられていて、旧街路灯に比べて40%電気代の節約につながった▼同商店街のコンセプトは「エコラボレーション(環境・共同作業)」である。木村理事長は「商店街はただ物を売っていくだけではだめ。たくさんのお客さんと共同して生ゴミリサイクルに取り組みたい」と話している▼中心市街地の商店街の活性化のあり方が検討される中、こうした取り組みを続けている同商店街の発想と行動には敬意を表したい。

 芝生から野菜(2005.07.01)

 わが家の猫のひたいほどの庭に芝生が植えてあったが、手入れが行き届かないものだから、毎年草が茫々で、あまりのひどさに今年は芝生を剥がして、野菜を植えてみた▼砂利やブロックの屑が混じった土なので良質な土壌ではない。ふるいにかけてそれを取り除くと、どうやら植えられるような土になった。ホームセンターから買ってきたトマト、茄子、キュウリ、ブロッコリーなどの苗を2〜3本植えてみた▼キュウリ、ブロッコリーは失敗したが、茄子、トマトとジャガイモは根付いて立派になった。肥料は油かすを1回、害虫予防には竹酢液を薄めて2〜3度かけただけである。トマトは茎が四方に勢いよく伸びて花を咲かせると、小さな実をたくさんつけ始めた。ままごと以下の作業なのにどうしたことかと首をひねってみると、うなずけることがあった▼庭に植えてあるザクロやドウダンツツジが毎年落葉して、腐葉土になっていたのである。土を掘り返してみると、みみずや小さな虫がいっぱい出てきた。以前、友人から庭の手入れがひどいと指摘されたことがあるが、おかまいなしにしてきた。この土が意外なところで役に立ったのである▼食物連鎖というか、自然の摂理に感動しているが、それ以後みみずや虫を殺すことをやめてしまった。そういえば鳥や虫などの飛来もいつになく増えている気がする。人間は自然の中の一部であり、自然の中で生かされているということを、はからずも自宅で再確認している。

 厚木テレコムの政策評価を(2005.06.15)

 第三セクター「厚木テレコムパーク」は、依然として経営改善の兆しが見られず、今期も当期損失が発生し、4年連続して債務超過に陥ることがこのほど開かれた6月議会の一般質問で明らかになった▼経営改善の見通しについては、地権者に地代の値下げをお願いするほか、インキュベーションルームの利用企業や市内の大学との連携を模索しているというが、これもどこまでうまく進むかは不透明だ。同社はあくまでも自主再建をめざすというが、出資した市に責任はないのだろうか▼厚木テレコムタウン計画は、市が旧郵政省の「テレトピアモデル都市」の指定受け、現在地に高度情報通信基盤が整備された未来都市をつくるため、事業主体となる第三セクター会社を官民共同で立ちあげたプロジェクトである。事業をリードしたのは紛れもなく市であり、その政策責任は免れるものではない▼これまで市はテレ「コムタウン計画」という政策目標に対する評価を怠ってきた。政策評価には合法性、経済性、効率性、有効性の4つの基準がある。厚木テレコムで特に問題となるのは、施策ないし事業計画の所期の目的が充分に達成されているかどうかという有効性である▼先月末、市は重要事業のマニフェスト・フォーラムを開いたが、残念ながらテレコム問題は含まれていなかった。テレコム問題についてもマニフェストを作成して市民に説明し、再建策を問う責任があるだろう。

 骨太の政策とマニフェスト(2005.06.01)

 5月28日、厚木市が「重要事業マニフェスト・まちづくり政策フォーラム」を開き、8人の担当部長が、まちづくりの中身について説明を行った。講演を行った中央大学の佐々木信夫教授は、このフォーラムに80点という合格点をつけた。講師という立場上、多少点数が甘くなるのは避けられないが、ギリギリの「優」だという▼佐々木教授は「今日のは政策のマニフェストではなく、事務事業のマニフェストだった」と前置きしながら、政策の先進性4、改革の進取性5、市政運営の民主性4、人材の優秀性4、情報の発信性が3という5段階評価をつけた。事務事業については合格点だというのである。それでは政策のマニフェストはどうだろうか?▼いうまでもなくマニフェストとは、政策の達成期限や数値目標などを盛り込んだ選挙公約である。既成の秩序を変え、骨太の将来設計を行って公共の意思決定をする、それが政治家の仕事であることは論を待たない。従って厚木市が行った「重要事業マニフェスト・まちづくり政策フォーラム」は、本来ならば市(行政)がやるのではなく、政治家山口巌雄氏が選挙に出馬する際にこれを掲げて有権者に問うことなのである。それはともかく、山口市長が掲げる「住んで良かったまち、住んでみたいまちを目指して」というのは果たして骨太の政策といえるだろうか? この言葉からは都市のイメージが湧いてこないし、どんなまちづくりをしたいのかも伝わってこない▼佐々木教授はマニフェストにおいて大事なのは「政策運営の科学化」であるとも指摘していた。たとえば家を建てる人なら誰でも、和風の家とか洋風の家ぐらいはイメージする。次に木造軸組(在来)とかツーバイとか、プレハブとかの工法の話になり、在来でも和風モダン、平屋の数寄屋づくり、ツーバイなら輸入住宅というように、具体的な家造りをイメージしていく。そして木造軸組なら柱は5寸、梁は4寸というように、骨組みをはっきりとさせるのである▼それはまちづくりにおいても同様だ。骨太の政策とは「住んで良かったまち、住んでみたいまちを目指して」というような抽象的・概念的な言葉を並べるのではなく、教育文化都市とか、環境共生都市とか、医療福祉都市とか、防災安全都市とかを柱に据えて、施策の体系化を図り、事業計画を練り上げることなのである▼「あつぎハートプラン」に掲げる厚木市の目指す将来都市像は「私もつくる心輝く躍動のまちあつぎ」である。これも極めて概念的で、目標を言っているのか手法を言っているのか分からない。厚木市には個々の施策や事業はあるが、科学的で骨太の政策がない。

 家庭に無料で入ってくるゴミ(2005.05.15) 

 家庭から出る可燃ゴミの処理を有料化する自治体が増え始めている。資源ごみとの分別を徹底してごみ減量化を図るとともに、自治体の処理費用を抑えるのがねらいだ▼県下では二宮町が処理手数料を条例化しており、小田原市ほか寒川、大磯など1市10町が市指定の袋を使って可燃ごみの収集を有料化している。大和市でも06年度から有料化する計画をすすめている。同市の計画は、家庭から出る可燃ごみを入れる袋を市の指定にして、有料化する方法▼スーパーなど約200カ所で購入できるようにして、指定のゴミ袋以外は収集しないとういうやり方だ。同市では可燃ごみの中に、紙・布類の資源ゴミが約45%含まれ、分別が行き届いていないのが現状だという。有料指定ごみ袋の導入で、分別収集が行き渡り、排出量が年間で約1割削減され、処理費用も減ると見込んでいる▼横浜市では分別品目を拡大したことで、4月分の家庭から出たごみの収集量が1年前に比べて2割減ったという。確かにゴミ処理費用を有料化すると余計なものは買わなくなるし、分別の徹底で排出量を減らすことにもつながる▼家庭には消費者が有料で購入する品物以外に、チラシやビラ、DMなど無料で入り込んでくるものが相当ある。これらは1カ月もたまると大量のごみになるが、残念ながらこれを止める手段がない。ごみ減量対策でいつも思うのだが、これを何とかできないものかと思う。

 ケータイを持ったサル(2005.05.01)

 成長した人間は親から離れて社会の中で生きていくが、サルはそうではない。サルは身内だけの群れの中で生きている。森の中で仲間を見失うと声を出し合うが、これは相互の存在を確認しようとしているだけで、人間と同様な社会を維持するためのコミュニケーションではないという▼比較行動学の正高信男氏が『ケータイを持ったサル』(中公新書)という面白い本を出している。正高氏は日本の少女たちが、携帯電話でたえまなく仲間と話をしようとするのは、サルが声を出す行為とまったくと同じであると言っている▼携帯電話の氾濫、引きこもり、ニート、パラサイト・シングル(成人してからも親から離れず、結婚もせず、衣食住を親に依存している人間)の増加は、子どもがいつまでも大人になれない日本の問題状況の反映だろう▼正高氏は、「日本の『子ども中心』の家庭は、社会に出て自立した個人として、ほかの人間と新しい関係を構築する準備を子どもにさせることができないばかりか、公共性への子どもの関心を育てることに失敗してきた」と指摘している▼現代日本のどれだけの少年少女が、感動の体験を持っているだろうか。「人間が自然の一部であること、人間が自然の中で生かされていること」を、痛切に感じさせられる瞬間を子どもたちに持たせることは、ケータイでは不可能だ。

 夕焼け小焼け音楽祭(2005.04.15)

 八王子で4月17日「第2回夕焼け小焼け音楽祭」が開かれる。厚木からも、ハーモニカカルテット「厚木エレガンス」とあつぎ商和会のあつぎパワフルタウン「乙女ダンサーズ」が出演する▼実はこの音楽祭、昨年10月、八王子に住む5人の退職市民が立ち上げた。5人は同市恩方地区の荒れた森林の再生を考える「環境市民会議」で知り合い、多くの人に恩方の自然の美しさや保全の必要性を知ってもらうことが大切だと意見が一致、「夕焼け小焼け」を作詩した中村雨紅を記念した音楽祭を企画した▼第1回の音楽祭には14組のプロアマが出演、2000人の聴衆が集い、大合唱でクライマックスを迎えたという。中村雨紅は八王子の恩方で生まれ、厚木で教鞭をとり、この地で終焉を迎えた。「生みの親が八王子なら、育ての親は厚木」といわれるほど、雨紅を通して両市の縁は深いが、これまで特別な交流関係はなかった。今回、厚木市民にも話があり、先のグループの出演が実現した▼この音楽祭を厚木でも企画し、八王子と交互に開催したらどうかと思う。厚木にはハーモニカ演奏家や童謡の会、子どもから大人までの合唱団、ミュージカル、ジャズグループなど音楽愛好者が大勢いる。ぜひ音楽祭を立ち上げてほしい▼八王子で仕掛けた5人は「八王子と厚木、そして夕焼け小焼けに縁のある都市が交流し、友好都市を締結できれば」と夢見ている。心より応援したいと思う。

 横浜事件(2005.03.15)

 戦時下最大の言論弾圧事件とされる「横浜事件」で、終戦直後に有罪判決を受けた元被告5人の遺族による第3次再審請求即時抗告審について、東京高裁が3月10日、「拷問による取り調べで元被告が虚偽の自白をした疑いがある」として、検察側の即時抗告を棄却した▼横浜事件と聞くと、筆者が若い頃知己にしていただいた2人の名前が浮かんで来る。1人は今回の再審請求が認められた平舘利雄さん、もう1人は藤田親昌さんである。戦時中、2人とも神奈川県特高警察により、治安維持法違反容疑で検挙され有罪判決を受けた▼平舘さんは筆者が大学生の頃、経済学部の教授として計画経済論を講義していた。講義は難しかったが、平舘先生の『ソ連工業の労働生産性』や『ソヴィエト計画経済』などを必至になって勉強した覚えがある。横浜事件の被告だったことは卒業した後で知ったが、20年ほど前、草柳大蔵氏の『満鉄調査部』を読んでいて、平舘先生が満鉄調査部出身だったことを知り、それが原因で検挙されたことがわかった▼藤田親昌さんは戦時中、中央公論の編集長だった。筆者が大学を卒業してかけだしの記者をしていた頃、「多摩の文学碑」というタイトルでミニコミ誌に1年間連載をお願いしたことがある。ある日、藤田さんは「特高の拷問は筆舌に尽くしがたい」と横浜事件の思い出をしみじみと話されたことがあった。藤田さんには事件のことを記した『言論の敗北』という著書がある▼2人とも故人になられたが、名誉回復への扉を開く今回の高裁決定を、どのように聞いておられるだろうか。

 市長の在任期間に関する条例(2005.03.01)

 綾瀬市の笠間市長が、市長の任期を3期12年までに自粛する「市長の在任期間に関する条例案」を3月議会に提出する▼多選批判を展開して昨年7月に初当選した市長の公約で、条例案は適用対象を「公布の日に市長職にある者」と「3任期を超えて在任することのないよう努める」としたため、自らの4選を自粛する形のものだ▼都道府県知事や市町村長は、人事、予算、許認可などすべての権限を持っており、その権力は強大だ。米国の大統領が2期8年以上やらない、知事、市長にも人気の区切りがあるというのは、まさにその弊害を阻止しようというもので、米国民主主義の根底をなしている▼日本でも広島県の宮沢知事、熊本県の細川知事、出雲市の岩國市長などかつての首長は、「2期が適当である」として8年で退任した。権力を持った人の周りにはどうしてもイエスマンが増えて、なかなか意見がしにくくなる。まして議会がオール与党化するとチェック機能さえ失われ、その結果、人事が硬直化して行政の活力が低下する▼首長は日常が選挙運動だ。あらゆる場面に登場して挨拶できるし、印刷物にも顔写真や名前が載る。4年に1度の選挙で審判を受けるといっても、現職と新人のハンディは選挙の公正さからいうと、とてつもなく大きい▼公選法には任期の規定はないが、笠間市長が、自らの4選を自粛する条例案を提出するという勇気には敬意を払いたい。

 自治体の友好都市交流(2005.02.15)

 厚木市は2月5日、韓国軍浦市、北海道網走市と友好都市を締結、今後の交流促進を誓い合った。同市はこれまでにニューブリテン市、揚州市、横手市、狭山市(防災姉妹都市)と友好都市を締結しており、これで6市となった▼友好都市サミットで網走市の大場市長は「少子化、過疎化で定住人口の増加が見込めない網走市は、交流人口を増やしていくのが重要な課題だ」と述べた。また、軍浦市の金市長は「国境がなくなり世界は地球村という時代を迎えている今日、自治体にとっての国際交流は選択の問題ではなく、必須の問題である」と発言した▼これまで友好都市交流や国際交流といえば、「交流」そのものを目的とする消費的なものが多かった。つまり「私たちは○○市民です」としてイベントやお祭りなどに参加、施設を見学して、テーブルに向かい合い、机上に旗を立てて儀礼的な挨拶を交わし、ホテルで食事をするようなご対面、消費型の交流を続けてきたのである。こうした修学旅行型交流は民間なら許されるが、これからはこうした公金の支出は正当化されないだろう▼自治体が行う交流は民間とは違って「価値創造型」でなければならない。交流によって新しい芸術文化が創造されるとか、新技術が開発されるとか、産業振興が促進されるとか、子どもの教育に役立つとか、地球市民の自治体学を実践するとか、公金の支出を正当化するようなものである必要がある。相手と自分たちとで共通の目標を掲げ、それを共同で実現していくような「実利」のある交流が求められているのである▼網走・軍浦の両市長が語った言葉にはこうした深い意味が込められているように思える。

 市制施行50周年と自治基本条例(2005.02.01)

 地方分権とは地域の自己決定権と自己責任を拡充していくことにあるが、その基本的な運用のルールとなるのが「自治基本条例」である▼自治体運営のルールを条例化し、透明化するねらいがあるほか、首長の多選禁止や入札汚職の防止、財政運営のルール化、住民投票の制度化など、自治体の自己統制能力を高める点にもねらいがあり「自治体の憲法」ともいわれている。03年4月、日本で初めて杉並区が自治基本条例を制定、以後、全国的に自治体版憲法をつくる動きが広まっている▼中央大学経済学部の佐々木信夫教授は、「自治基本条例を定めると、1.自治運営の仕組みが分かりやすくなる。2.行政運営の根拠が明確になる。3.住民参画のルールができるなど、全体として住民自治の高揚が期待される。それがメリットである」と述べている(『地方は変われるか』ちくま新書)▼日本の自治体がいま準備すべき6つの政策手法(情報公開、行政手続き、政策評価、IT化、自治基本条例、バランスシート)の中にも、この自治基本条例が含まれているが、厚木市にないのがこの自治基本条例だ▼同市は今日2月1日「市制施行50周年」を迎える。これは先人のたゆまぬ努力、知恵と勇気、そして汗の結晶のたまものであるが、その厚木市に「自治体版憲法」がないというのはいかにも寂しい▼市制30周年でポールポジションに立った厚木市は、50周年までの間に自治基本条例を制定すべきだった。佐々木教授は「自己決定、自己責任で地域を運営する分権時代は、身近な政府の運営ルールを自らつくるその心意気が大事である」と指摘している。住民自治が高まれば、市民意識もぐんと高まる。市制50周年はそうしたお膳立てをするにふさわしい絶好のチャンスでもあった。これまでの厚木市の10年は「空白の10年」ともいわれている▼50周年を迎えたいま、厚木市民が天命を知ることができるかは極めて疑わしい。厚木市は今後も惑わず前進していけるだろうか。

 西山と住民福祉(2005.01.15)

 昨年12月、西山を守る会が提出した住民監査請求の陳述が1月12日市役所で開かれ、花上義晴代表ら3人が、監査委員を前に意見陳述を行った▼西山問題の焦点は、市はなぜ市道の廃止付け替えを行ったのかという点にある。市が市道を廃止した理由は、交通の用に供する必要がなくなったと判断したからである。問題なのは利用者がいなくなったと客観的に誰が判断し認定したのかということだ。市の職員がある日現地調査を行ったところ、誰も人と出会うことがなかったため、利用者がいないと短絡的な判断しただけの話である。たとえば1ヶ月間、この市道を通行する登山者やハイカーがどのくらいいるのかということを調べた実態調査にもとづいたものではまったくないのである。調査自体がお粗末で事実誤認も甚だしいのだが、いずれにしても市は市道を廃止して付け替えたのである▼しかし、ここでまた問題となるのはなぜ付け替えたのかという点である。利用者がいなくなったのであれば廃道にするだけで済むのに、わざわざ付け替えたのである。付け替えたということは、まさに利用者があるという前提に立っているわけで、これは「先の交通の用に供する必要がなくなった」という判断とは明らかに矛盾した行為である▼市は平成10年3月「厚木市都市マスタープラン」を策定し、荻野地区の景観形成の方針を、「高取山などの山地や丘陵の保全、まちのふちどり(背景)の保持とともに、現在の尾根筋や山頂の優れた見晴らしの場の確保(継承)」をうたっている。にもかかわらず翌年の7月に業者と「華厳採石拡大計画に係わる覚書」を交わし、平成15年9月議会に市道の廃止を提案するという全く逆のことを行ってしまった▼「都市マスタープラン」というのは、まちづくりについての基本的な理念と計画を掲げたもので、これに沿って都市作りが行われなければならないのはいうまでもない。厚木市は都市マスタープランを無視して単なるお題目だけにしてしまったのである。都市マスタープランにうたったこの文言は一体何なのかということである。▼地方行政というのは自治法にもとづき住民福祉の向上をはかるのが目的だ。業者が岩石採取のため、市道が邪魔だから廃止・付け替えにして欲しいと言ってきたら、「岩石採取には公益性はないし、市道を廃止すると住民が不利益を蒙るのでそれは困る」という判断をして業者を行政指導すべきなのである。ところが厚木市は、住民に十分な説明をしないで業者の頼みをそのまま聞いてしまった。市道を廃止・付け替えたことによって、業者は市道部分の直下まで採石が可能になり、莫大な利益を得ることになったのである。果たしてこれを住民福祉の行政、山口市長の言う「市民が主役の市政」ということができるだろうか▼ところで、昨年付け替えられた市道は、風雨などにより通行不能な箇所が至る所にあるという。現状では、付け替えられた市道は交通の用に供していないのと同じである。市が長年、管理を怠り廃止された市道(現在は市道ではなく、業者の所有地となっている)は、今も健在で登山者やハイカーに利用されている。今後、付け替え道路がさらにきちんと整備されたとしても、この道路を好んで利用する人は少ないだろう。なぜなら山の空気や草木、景観、癒し、歴史文化など市民が共有できる財産的価値を失った道路には誰も魅力を感じないからである▼地方分権とは地域の自己決定権と自己責任を拡充していくことにあるが、厚木市のやり方を見ていると、市道の管理保全は市固有の事務であるにもかかわらず、環境アセスなどの上位法を理由に「反対しても無駄である」ような世論操作をしたり、情報公開と説明責任を十分にしないで、業者に便宜をはかったとしかいいようのない対応は、まさに住民福祉や分権時代に逆行する行為でしかない。

 命のリレーと精神のリレー(2005.01.01)

 人間が生まれてくることには二つの大きな意味がある。一つは命のリレー、もう一つは知識や文化などを伝える精神のリレーである▼命のリレーとはいうまでもなく子を産み育てるという行為である。子育ては人間社会の中でも最も価値ある仕事であり、これがなければ社会は解体する。昔から子どもは社会の宝だった。にもかかわらず日本の社会でこの命をリレーするという行為が解体に向かっている▼いわゆる「負け犬論争」なるものがあって、既婚・未婚で勝ち組・負け組などとレッテルを貼る始末だ。未婚女性が増えているのは、「自分は結婚に何を求めているのか」「それによって失うものは何か」という女性の生き方に疑問があるからであろう▼シェイクスピアが「人はみな泣きながら生まれてくる」という有名な言葉を残している。作家の五木寛之氏は、「この中には人間は自分で自分の生まれ方を決められない、人間の一生は日々死へ向かって進んでいく旅である、人生には期限があるという3つの否定できない真理が含まれている」という▼命のリレーにはそうした誰もが答えられない深い疑問がある。だからこそ泣きながら生まれてきたのであろう。生まれてきた以上、それを伝え次世代にバトンを渡すランナーでなければならない。命と精神のリレー、この2つが一緒になってこそ社会が前進する。今年はこの意味を深く考えてみたいと思う。

2005年賀状