投書と電話、そして情報提供     市民かわら版編集長 山本耀暉   

 差出人不明の投書 
 報道という仕事をやっていると、ミニコミ紙でも読者からさまざまな投書や情報提供、電話などをいただく。その内容は行政に対する批判や苦情から、意見、読者に伝えたいこと、行事やイベントの案内など実にさまざまだ。FAXや郵便で資料が送られることも多く、最近はメールでの情報提供も増えてきた。
 一番多いのは記事として取り上げてもらえないだろうか、情報欄の片隅にでも載せてもらえないだろうかというものである。公共性のあるものは出来るだけ取り扱うようにしているが、中には明らかに商売が目的なのに公共性を装って掲載依頼を要請してくるものもある。これにはいささか閉口してしまう。
 それに一方的に送りつけてきて、後で「どうして載らないのか」などと文句をつけてくる人もいて驚いてしまう。こちらは約束したわけでもなく、それについて話をしたわけでもないのに、当人は送れば載せるのが当然とでも思っているのだろうか。もちろん、資料を送る前に電話をしてきて、これからFAX(または郵便)で送らせてもらうが、取り扱いを検討していただけないかというお願いもある。そういう場合は決まって丁重なる手紙も添えてある。こちらも人間だから直接頼まれれば、情にほだされることがままあり、やはり丁重なお願いには弱くなる。
 いわゆる「投書」は差出人の名前や連絡先の記述のないものがほとんどだ。差出人不明の投書は、役所や議員などへの批判が多いが、単なる不満や批判・中傷などを一方的に書いてくるものもあり、編集部としては「内部告発」以外は連絡の取りようがないので、捨て置くことにしている。
 中には理路整然と自分の考え方を説明していて関心させられるものがあり、このまま眠らせてしまうのは勿体ないと思うが、連絡先が書いてないので困ってしまう。
 10年ほど前だったと思う。これまでいただいたいろんな投書の中では、一番論旨が明確で文章もしっかりしていて、関心させられるものであった。学校給食問題を扱ったもので、私が「風見鶏」に書いた学校給食に関するコラムを読んで感想と意見を寄せたものである。投書を読むと現職の教員であった。客観的な記述でとてもいい内容だったので、掲載したかったのだが、残念ながら差出人不明で連絡が取れなく、没にせざるをえなかった。
 そのときの「風見鶏」と「投書」の内容は次の通りである。

 学校給食を廃止せよ(「風見鶏」1996年8月15日)
 厚木市には中学校に給食を導入するという話がある。しかし、飽食の時代に本当に学校給食が必要なのだろうか。筆者は以前から学校給食は廃止した方がよいと思っている。なぜ学校給食を廃止した方がいいのか。
 まず第1に、子どもの食事は、本来は親の責任分野であるということだ。親が子の食事の心配をするのは動物でも当たり前である。学校給食が導入されて以来、この考えがいつの間にか主客転倒してしまった。現在の給食はただ親を楽させるだけのものとなってしまっている。
 第2は給食は戦後の食糧難の時代に始まったもので、欠食児童や栄養状態を改善するのが本来の目的であった。だが、飽食の時代に入ってこの目的は完全に達成されてしまっている。
 第3はセンター方式の給食は、メニューの統一と食材のまとめ買いなどで、学校の独自性が損なわれるからである。しかも食中毒が発生すると、被害が大規模になる。
 第4に食文化の大切さや栄養の基礎を学ぶなら、学校給食よりも親のつくる弁当が恰好の教材だ。子どもたちは親の愛情がこもった弁当を食べることによって、親子の絆を認識し、食文化の大切さやその意味を学ぶことができるのである。ここには家庭教育の原点がある。
 第5は個性化教育の実践である。クラスに四十人の個性があるのなら、弁当もまた四十の種類が持ち込まれる。われわれは自分の家の晩ごはんのおかずと隣の家の晩ごはんのおかずが違うことを当たり前のこととして受け止めている。家族そろって外食すると食べる物が一人ひとり違うというのも何ら不思議なことではない。
 弁当は人間一人ひとりの違い、自分と他人との違いや、個性、喜怒哀楽の違いを、人間の最も基本的な欲求である食べることを通して教えてくれるのである。

 投書「学校給食について」
 初めまして。「市民かわら版」は、時折目を通しています。
 さて、前回「風見鶏」に学校給食についての意見がのせられていました。読み終わって、久々に我が意を得たりといった気がしましたが、今回のを読むと、やはり、あの記事について、色々な反応があったとか。ただ、どうも文面から察するに、反対意見が多かったようですね。
 今回、第1の理由として、子供の食事は親の責任分野であると述べられています。全くその通りであると思います。私は仕事に通う成人した子どもに毎日弁当を作っていますが、大人になってさえ、食べ残してくると、「夕べ飲み過ぎてもいないのに、今日はどこか体調が悪かったのかな」などと気づきます。まして、小さな子供の場合、なおさら心や体の調子が、弁当を食べた様子で判断できると思います。
 第2の理由も全くその通りだと思います。目的が達成されているどころか、現在の給食制度では、食べ物を有り難いと思う気持ちよりも、粗末にすることを教えているようです。食べ残したものは、残菜バケツに無造作に捨てられます。パンも牛乳も、給食で出された食品はすべて、学校外に持ち出すことはできません。これでは勿体ない、いう感覚が麻痺してくるでしょう。恐ろしいことだと思います。弁当でも、食べ残してくれば捨てざるをえませんが、御飯であれば庭にまいて、スズメにやることもできるし、パンなら乾燥させて、パン粉として使うなどできるのではないでしょうか(話がみみっちいうようですが、毎日捨てられる多量の残菜を見ると、本当に勿体ないと思います)。
 第3の理由も、現在問題になっている食中毒の問題などを合わせ考えると、いっそう説得力があります。
 第4の食文化との関連ですが、以前、学校給食における先割れスプーンが問題になったことがありました。このスプーンが犬食いスタイルに結びつくといった論点であったと思います。しかし、1日、3度食事をとるとして、1週間で21回。そのうち学校での給食は5回です。それだけの回数で食べる姿勢がそんなに変化するだろうか、就学以前に家庭で、正しい箸の持ち方、糸底に指をかけて茶碗を持って食べる習慣が身に付いていたならば、学校給食で犬食スタイルになるなんてことはありえないと思っていました。つまり、食文化は身につけるべきものであるし、また、身についていくものであると思います。
 第5はまさに声を大にして言いたい。学校給食は、今、一人ひとりを大切に、一人ひとりの個性を生かすといった潮流が主流です。一人ひとり確かに個性も違い、それまでの食経験も違います。体格も好みも、その日ごとの体調も違います。そんな子どもたちに同一の食べ物を食べさせる給食制度は、やはり問題があるといえるでしょう。
 以上、記事にあった五つの観点から思ったことを述べました。
 さらに、学校教育の現場から、6つ目に給食についての問題について述べます。まず、現在、給食の準備は子どもたちが行っていますが、準備から「ごちそうさま」まで、45分間の時間が設定されています。高学年になればすべて素早く十分のゆとりをもってこの時間内にほぼ全員が食べ終わることができますが、低学年では無理です。準備にも結構時間がかかります。弁当であれば、準備の時間がなくてすみますので、30分あれば食べられ、のこりが昼休み時間として、かなりゆとりをもって過ごせるのではないかと思うのです。私自身は給食の体験が3カ月しかありません(6年生の3学期から、給食が始まったのです)ですから、小学校時代、昼休みを目いっぱい遊んだ楽しさを覚えています。学校生活にゆとりを取り戻すためにも、弁当のほうがいいような気がします。
 また、好き嫌いについての指導ですが、本来は家庭の役割と思いつつも、やはり指導せざるを得ません。が、当然そこにストレスを感じる子どももいるのではないでしょうか。
 教師の仕事の中にも給食部というのがあって、本来の子どもの指導の他に毎日の発注、給食費の集金台帳の作成、点検といった仕事もあります。担当者はかなり大変です。給食費の集金については滅多にないことですが、滞納といった問題もあり、何度も催促に行って嫌な思いをした経験もあります。口座引き落としにしている学校では、残高不足で引き落としできない場合、大変手続きが面倒で問題だという話を以前聞いたことがあります。自分の子どもの食事代なのにと、いやになってしまいます。
 以上、長々と書きました。あまり偉そうなことは言えませんが、やはり子どもを育てるって、親の仕事です。食べることはその根幹です。そこを親が担わないでいいのだろうか。ましてや子どもはお国の子どもではないのですから。(ついでながら、中学校の制服も必要ないと思います)
 ただ、卒業して大人になった子たちに会って小学校時代の思い出話に花を咲かせる時、「昔食べた、クジラの揚げたのおいしかったなあ」などと話題になり、ああ、給食がそんなかたちで思い出になっているんだなと思うこともあります。
 本来はこのような投書は、実名を記名するべきですが、学校現場の様子などを書いたこともあり、申し訳ありませんが、匿名にさせていただきます。前回の「風見鶏」で再び弁明のような口調で書かれているのを読んで、あの趣旨に賛同している者もいるのだということを是非お知らせしたかったのです。
 それでは暑いさなかですが、お体に気をつけて良いお仕事をなさってください。市内1教員(1996年8月15日)

 便利屋代わりに使う読者
 また、談合情報を事前に知らせて来る者もいた。当然差出人不明である。いついつ市の入札があるが、落札業者がこのように決まっているというのである。これは日刊紙にもそうした情報が寄せられている場合が多く、こういうのはミニコミが追いかけても仕方がないので、日刊紙にお任せすることにしている。
 中には不祥事を起こした職員のプライベートや市の人事管理のまずさ、処分に関する是非、また、自治体の長が過去に職員の前で演説したり話をした時に、間違えて読んだ漢字をいくつも太字で羅列しながら本人の能力のなさを指摘して、こうした尊敬に値しない長を上司に持つ職員の辛さ、不祥事の根源はそこにあると訴えて来る人もいる。どうみても職員が書いたものとしか思えないのだが、三文週刊誌ではあるまいに、個人のプライベートや能力のなさを取り上げて、悪評判をたてたり人間的な評価を下すためのお手伝いをするつもりは毛頭ないので、こうした類の投書も読み捨てることにしている。
 さらにこんな投書もある。役所に直接聞けば済むような行政情報を、自分でろくに調べもしないで、問題ありだから調べてもらいたいなどと言ってくる人がいて、こちらを便利屋程度にしか思っていないのかと言いたくなる。
 いつぞやは人からもらったトマトがとてもおいしかった。厚木産のトマトだという。どこの誰が作っているのか、どこで売っているのか調べて欲しいという内容をメールで送ってきた人がいて、うんざりしてしまった。
 こうした投書は最低なのだが、まともな投書についていうと、投書をする以上、独り言ではないから、誰でもメディアの力を借りてという意図があると思うが、そんな時は掲載については匿名でも構わないから、せめて本人の連絡先ぐらいは書いて欲しいと思う。

 サイレントマジョリティとは?
 以前、電話で意見を具申して来た人がいて、こちらが名前を尋ねると「なぜ名前を言わなければいけないのか。声なき声も声である」と妙な理屈を主張した人がいた。「名前を言わないこと」と、「声なき声も声である」という論理がどう結びつくのか首を傾げざるを得なかったが、こうした変な理屈を言う人は、自分は常に姿を見せない安全な場所にいて、あるいは姿を隠していて、外からこづいたりいちゃもんをつけているようにしか見えないのである。
 そもそも「声なき声」を主張した人は、60年安保にふつうの主婦の立場でデモに参加した小林トミさんである。
 1960年6月4日、安保反対を叫んで国会を包囲する大きなデモ隊の最後尾について、ひとりの若い女性が仲間と2人で「誰でも入れる声なき声の会」と書かれた横断幕を手に歩いていた。その後から1人、2人と名もなき人たちが次から次へと小さなデモの列に加わり、いつの間にかデモの数は300人を超えた。この女性が千葉県に住む小林トミさんだったのである。当時30歳。デモの参加者は互いに住所や名前を教え合って、トミさんを代表に「声なき声の会」が誕生した。
 「ふだんは黙っている私たちもこんなときは声をあげなくっちゃ」
 政治家でも活動家でもない、ふつうの主婦が国会に行ってデモを始めたのである。ふつうの人が自分の意思でデモに参加する、そんな市民運動が芽生えた瞬間だった。
 この年の7月からトミさんは「声なき声のたより」という投稿誌を始めた。そして死ぬまで表紙絵も自分で描き続け、98号まで発行したという。トミさんは死を賭して権力と対決しようとしたのではない、活動家としてデモを組織しようと考えたのでもなかった。ましてやマスコミの力を借りて世の中を動かそうとしたのでもなかった。ひとりになっても自分でできることを、誰にでもできる形であらわしたのである。もちろん自分の身分を明かしてのことは当然である。まさに声なき声を身をもって示し続けたのであった。
 「声なき声」というのは英語でいうところの「サイレント・マジョリティー(silent majority)である。声高に自分の政治的意見を唱えたりメディアに投稿することをしない一般大衆をさした言葉で、ボーカルマイノリティー(声の大きな少数者)の反対語である。物言わぬ大衆、公の場で意思表示をすることのない大衆の多数派ともいう。多数派であるにもかかわらず意見を言わないために少数派にとどまっている集団ともいえる。
 1969年にアメリカ大統領のニクソンが、ベトナム戦争に対して声高に政府批判をする者は少数派である、大多数のアメリカ市民はベトナム戦争を支持しているという意味でこの言葉を使った。岸信介首相も「安保国会」において、安保反対運動に参加していない国民を声なき声という言葉でサイレント・マジョリティを表現した。為政者が体制を維持したり政策を擁護するために好んで用いる言葉で、特に政治家が使う場合、注意して聞かなければならないのだが、政治家は物言わぬ大衆の願望にこそ耳を傾けるべきだという気持ちがこめられている。
 従って、物は言うけど名前は言わない、顔や姿も見せないというような発信者不明の人の意見を、「サイレントマジョリティ」とは言わないのである。それは単なる雑音でしかない。
 かつて日本には「武士道精神」があった。武士なら闇討ちやだまし討ちは恥ずべき行為で卑怯者がする行為であった。一対一で闘うときは姓名官職を堂々と名乗り合って一戦を交えたのである。言論の世界もおなじであろう。意見を言い合う時は相手が誰か身分を明らかにするのがルールだ。
 もともと声を発するという行為は他者に対して自分を確認するところから始まる。すなわちオピニオンとは発言者を明確にすることなのである。何かを主張をするなら、それなりの責任、あるいはリスクを負うべきで、主張というのはそういう行為ではないかと思う。シンポジウムなどで参加者からの発言を求める場合、司会者が「意見を言う前に名前を言ってから発言してください」とあらかじめ断るのも、そうしたルールがあるからであろう。

 ミニコミは第三の権力か?
 ところで、報道の側から言わせると、誰が言ったか分からないような意見や投書は実は要注意なのである。怪文書がその最たるもので、ウラのとれない情報はアブナイ。従って、われわれ報道にたずわる人間が、相手の名前や所属を聞いたりするのは客観的、真実の報道をおこなう上では至極当たり前のことなのである。
 こちらは24時間常に丸腰である。武器も何も持っていない。持っているのはペン(最近はパソコン)だけである。だから、覆面をしたり隠れたりしないで、安心して姿を見せて欲しいと思う。
 こう書くと、「マスコミは第3の権力」を持っている。「ペンの暴力」という言葉もあるではないかと反論する人がいる。だが、マスコミとは違って「市民かわら版」のようなミニコミにペンの暴力なんてあろうはずがない。こちらは日刊紙と違って、年間に24回しか書くチャンスがないミニコミだ。しかも書いている人間が誰か、どこに住んでいるかさえも明らかにしている。権力を持っているどころか衆人環視の中で仕事をやっているようなものなのである。読者に不満な記事を書いた時などは、「新聞を発行できなくしてやる」「ぶっつぶしてやる」などと、逆に脅される始末で、吹けば飛ぶようなミニコミに権力があるなんてありえないことなのである。
 それに、ふだんはミニコミなんか相手にもしないくせに、取り上げて欲しい時だけアクセスしてくる。しかも、名前を聞くと、「声なき声も声である」などと変な理屈をこねくり回す。面白いのは、そうした人たちが自分の経歴や業績を印刷物やホームページなどで宣伝する際、日刊紙に取り上げられたことは得意になって宣伝しても、ミニコミに取り上げられたことなどは1行たりとも書いていないのである。要するにミニコミを便利屋、使い捨て程度の認識しか持っていないのである。


 活字の怖さを知る
 それにしても、「ペンの暴力とは」とは一体なんだろうか。われわれが正しいことを伝えている、正論を伝えている、大多数の人に支持してもらっていると思っていても、誰かが厭な思いをしたり、悲しんだりする人がいるかもしれない。それをペンの暴力とは言わないのだろうか。社会の悪や不公正を「正義」を振りかざして徹底的にたたくのもマスコミである。被害者取材が加熱し、まるで加害者扱いで報道するなんていうのは「ペンの暴力の」最たるものであろう。
 最近のマスコミは、どのメディアも同じ対象を数量化し画一化し、商業主義的な枠組みでしか情報を流すことをしない。テレビのニュースがワイドショーと化して以来、どのチャンネルも同じ人物を取り上げ、もてはやし、こびへつらい、何かあると手のひらを返したようにバッシングを浴びせる。そこには視聴率至上主義に毒されたテレビ局が、常におもしろ可笑しく刺激を求める視聴者に迎合したいわばポピュリズム(大衆迎合主義)が見えるのである。それがペンの暴力と結びつく時、われわれはとてつもない罪を犯すことになる。
 マスコミにたずさわる人間が、常に心しておかなければならないのは、「報道という仕事にたずさわっている限り、誰かを傷つけ不幸にさせているかもしれない」というマスコミ性悪説の論理である。これは長年、私がマスコミの底辺で仕事をしていて、50歳を過ぎたある日、知人の画家が言った言葉から突然悟ったことの一つである。書くことも仕事だが、書かないのも仕事というのはこうした考えからも出てくるのであろう。書くということには大きな勇気と責任がともなう。活字の怖さを知っている者こそ、報道目的を理解できるのだと思う。

 名前を言わないのはアンフェア
 いろいろと理屈を書いてきたが、話を元に戻すと、実は私が相手に名前を尋ねるのは、初歩的にはこちらは最初から名前も身分も住んでいるところもすべてオープンにしている。いつでもどこからでもどうぞという気持ちでいるのに、せめて名前ぐらい教えてくれないとフェアではないのではないかと思っているだけの話である。
 もちろん、名前を名乗らないなら意見を言うなと言っているのではない。確かに社会的弱者といわれる人の氏名や電話番号が公開されたり特定されると、被害や不利益を受ける場合があるだろう。そうした気持は充分に理解できる。社会が少数意見を正当に発言させることを保証しているのが民主主義である。その意味で少数意見を紙面に反映させるマスコミの役割は非常に大きいと言わねばならない。そのことによって弱者や少数者が社会的な不利益を被ってはならないことはいうまでもない。
 しかし、われわれ報道機関が本人に無断でプライバシーを公開することはありえないし、ニュースソースを明らかにすることもない。医者や弁護士、公務員と同じように職務を通じて知り得たことがらには守秘義務があるのである。それを洩らすことは自殺行為になるし報道の前提である「信頼関係」が崩れる。だからマスコミは掲載する場合、匿名にしたり、固有名詞を出さない方法を用意しているのである。
 それに電話や投書をしてきたからといって、必ずしも報道に結びつくわけではないことも知ってほしい。残念ながら「記事になりません」という場合だってあるし、現実にはそうしたケースの方が圧倒的に多いのである。そうした時に名前や電話番号が分からなければ連絡の取りようがないのである。
 だが、本人は、「せっかく投書したのに、一向に紙面に載らない。一体この新聞はどうなっているんだ」と自分勝手な評価をして、怒っているのである。こうした独りよがりの考えと行動が世の中にいかに多いかとつくづく考えさせられる。

 自分の意見を自分の名前で責任をもって言おう
 電話にもいろいろな電話がある。1つは抗議の電話だ。ちゃんと名前を名乗って意見を言って来る人もいるが、自分の名前や身分を明かさないで、一方的にまくしたてて電話を切ってしまう人たちがほとんどだ。そして「かわらは版は最近、評判が悪いぞ」と文句を言ってくるのである。そういう人たちの論理は自分たちに都合のいい報道をしてくれるのはいい新聞だ、いいミニコミだ。ところが自分たちに都合の悪いことを書くのは、いい新聞ではない、いいミニコミではないと思っている。要するに評価の基準が公平だとか公正だとか、客観性だとかいうのではなく、あくまで自分たちの利害、利益が評価の基準なのである。
 相手は興奮して電話してくるのであるから、こちらはまず冷静に話を聞くことにして、一通り喋らせた後で反論すべきは反論する。それでも納得しない人には、こちらが署名入りで反論を掲載しましょうかと言うと、途端に尻込みしてしまうのである。
 だから、名前を名乗らない抗議電話は当たり前、無言電話もしょっちゅう。いつぞやなどは、私の1日の行動を調べ上げて電話をしてくるなど、尾行しなければとても分からないような仔細なことまで言ってくる。そして「こちらは何でも知っているのだ」と言わんばかりに無言の脅しをかけてくるのである。これには驚くというより何とも気味悪い思いがして仕方がなかった。
 最近は、電話をかけても相手に電話番号を知られない「非通知」というシステムがある。非通知だから名前を言わなければ相手が誰で、どこからかけてきたのかさえもまったく分からない。
 フランスでは電話番号は事実上、公開が原則だという。プライバシーの配慮から「性別が知られる名前」「正確な住所」の掲載を拒むことは認められているが、公開を拒否するには書面での申告が求められるという。この原則を貫いている意味を、社会学者のエマニュエル・トッド氏は、「相手が自分の番号を知り、自分は知らない。これでは社会の均衡がなりたたないからだ」と話している(朝日新聞・05年10月30日 be on sunday 「wonder in life」)。
 電話や投書で自分の意見を言う場合に、自分の名前を明らかにするということぐらいは最低限のルールであろう。
 われわれは幽霊と話しているわけではないし、読者の感情の吐け口として紙面を提供しているわけでもない。自分の意見を自分の名前で責任をもって言える、そういう電話や投書が増えることを願っている。(2005・11・6) 

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