心臓手術体験        市民かわら版編集長 山本耀暉   

  「山本さん、心臓の血管がボロボロだよ」
 主治医はそう言うと、検査室で寝台の上に横になっている私の目の前で、フィルムに撮った画像を見せながら、冠動脈の狭窄部分についての説明を始めた。
 「ボロボロ」とはどういうことなのだろう。私には先生が言った言葉の意味が良く判らなかった。自分なりにあれこれと頭を巡らしてみる。ボロボロというのは、血管が古くなったゴムホースのように固くなってあちこちにヒビが入り、ちょっとした刺激で切れたり破れたりすることを言うのだろうか…。
 私は先生の指揮棒を目で追いながら画像を一つひとつ見ていった。心臓の外側を走っている太い冠動脈が外側から糸で縛られたように途中で細くなっている部分がいくつかあった。まるでウィンナーソーセージの縛り口のようである。それは細くなっているというよりは、ほとんど詰まっている状態だった。先生の話によると、それが3か所あってその先にはほとんど血液が流れず、毛細血管がバイパスの役目を果たしてかろうじて心臓が保たれているということであった。
 〈そうか、ボロボロというのは血管が詰まっていることなんだ〉私はそう思うと、目の前が真っ暗になった。自分の病をそれほど大袈裟に考えていなかった私には、それは大変なショックであった。どうすればいいんだろうと思っていると、
 「風船療法(PTCA)では無理なので、バイパス手術をやるしかありません」
 主治医は私の顔を見ながら気の毒そうに言った。この風船療法という言葉の意味も私にはわからなかった。
 「山本さん、手術のできる病院をご紹介しますので、そこで手術を受けてください。湘南鎌倉総合病院か大和成和病院がいいので、どちらにしますか」
 私は咄嗟に手術を受けるなら、大学病院の方がいいと思った。もともと、北里大学に行こうと思っていたのである。この病院で診てもらっても、手術や入院するのは北里大学だと考えていた。それに湘南鎌倉総合病院も大和成和病院も聞いたことのない名前である。
 「先生、北里大学は駄目でしょうか?」
 「駄目とは言いませんが、北里には腕のいい医者はあまりいないと思いますよ」
 「東海大学は?」
 「同じでしょうね」
 私の希望はいとも簡単にうち消されてしまった。
 「わかりました。では近い方がいいので、大和の病院を紹介してください」
 〈まいったな〉私はそう思いながら、これから体験する未知の世界のことを思うと、何ともいえない不安に襲われた。

 心臓に変化の兆候が現れ始めたのは、6月上旬ごろからである。左の胸が重苦しくときどき肩が凝るような変な感じがした。
 「肩凝りかな。仕事が一段落したらマッサージにでもかかってみようか」
 私はそんな軽い気持ちでいた。ところが、心臓の異常は日増しに強くなって行った、やがて左肩から左腕、左手にいたるまで痺れとともに鍼灸の針で刺すような何ともいえない痛みが走るようになった。後でわかったのだが、これが典型的な狭心症による心臓発作の症状であった。
 しかも発作の間隔は次第に短くなり、1日に5〜6回も起きるようになった。そのたびに左腕がもがれるような痛みが続いた。発作が起きると苦しさで立っていることができず、所構わずうずくまってしまう。椅子に座っていてもじっとしていられず、壁に頭をもたれたりテーブルの上に頭を垂れたりして、右手で痛みの走る左腕をつかまえているのが精いっぱいだった。
 にもかかわらず、私は毎日仕事をこなしていた。車を運転したりデスクワーク程度なら発作が起きないのである。今考えてみると、爆弾を抱えながらの日々であったと思う。
 ある時、駅前に用事があってスーパーの駐車場に車を停め、駅まで歩くことにした。健康な身体なら5分ほどで駅にたどり着くが、さすがにこの時ばかりは様子が違った。普通に歩いていても1、2分ほど歩くとすぐに発作が襲ってくる。立ち止まって休むしかない。歩き方も自然とスローになり、健康な人が歩く速度の3分の1程度になった。
 私が信号機のある横断歩道をノロノロ歩いていると、すぐに信号が赤になった。気が急いているので自ずと足が速くなってくる。すると運動量に心臓が堪えきれなくなるのか、横断歩道を渡り終えたか終えないうちに強い発作が襲ってきて、私はたちまち苦痛の海に放り出されてしまった。我慢と恐怖で体中から脂汗が吹き出てくる。私は必死で倒れるのを堪えていたが、さすがに我慢しきれずとうとうその場にしゃがみ込んでしまった。通りがかりの人が苦悶する私の表情を見て、声をかけてくれたが、大丈夫だといって再び歩き始めた。
 私は5、6歩歩いては休み、そしてまた歩くというくり返しをしながら、30分もかかってやっと駅にたどり着くことができた。駅に着くまでに20回以上は休んだろうか。用事を足した後、車のところまで無事戻れるかと不安になったが、それでも何とかして戻ってくることができた。今考えても信じられないほど無謀な行動であった。私はついに医者へ行くことを決断した。
 
 私が東名厚木病院を訪れたのは7月2日だった。普通なら救急車でかつぎこまれるケースだが、私は自分で車を運転して行った。すぐに循環器科に回され、高橋潔先生の診察を受けた。
 「とりあえず負荷をかけて検査をしてみましょう」
 先生はそう言うと、トレッドミル負荷心電図というベルトの上を歩いたり走ったりする検査室に連れて行ってくれた。検査中は体を動かすので発作が絶え間なく起こっている。一発で「狭心症」だということがわかった。しかも相当重症らしい。
 「山本さん、早いうちに心臓の精密検査を受けた方がいい。ご希望を仰って下さればどこでも紹介しますよ」
 「先生、ここでは検査はやらないんですか?」
 「いいえ、私どもでもできますが…」
 「ではここで検査して下さい」
 「わかりました。では来週の水曜日に検査をしますので、入院の支度をして来て下さい。その間、お薬をさしあげます。万が一のことを考えニトロも出しておきますので、発作が起きたらそれを飲んでください。苦しくなったら我慢しないで、24時間いつでも構いませんから救急車で来てください」
 私はそう言われて、点滴を受けた後、薬をもらって自宅に帰った。老人ならそのまま入院だそうである。その日は点滴を受けたせいか、ずいぶん身体が楽になるのを感じた。以後、強い発作はあまり起きなくなった。でも大変なことになったということには変わりがなかった。
 心臓カテーテル検査の結果、私の心臓は冠動脈が3本狭窄していることが判明した。入院までには1週間ほど日があったので、薬を飲みながら、自宅で待機することになった。その間いつまた発作がおきるか分からない。
 「我慢できなくなったら、いつでも救急車で来てくださいよ。カテーテルの検査結果は先方の病院に先に送っておきますから」
 高橋先生はそう言って、大和成和病院の南淵明宏先生に紹介状を書いてくれた。翌日の午前中、退院手続きをして病室で待っていると、ひょっこり理事長の中佳一先生が姿を見せた。
 「山本さん、大変なことになりましたね。でも大和成和病院の南淵先生はとても腕がいいと聞いていますので、任せて安心ですよ」と言ってくれた。私はその一言で不安が取り除かれるような気がした。
 自宅待機の間は、幸いにも救急車で駆け込むような発作は起きなかったが、入院までに3、4回ほど軽い発作が起きてニトロベンの世話になった。
 私はその間、仕事で迷惑をかけてはいけないと思い、得意先や外注先に電話を入れ、体調を崩したのでしばらくの間休業するという連絡をした。自分ではせいぜい1か月か1か月半ほどの休養で済むと思っていたので、相手にもその旨を伝えたが、後になってこれがとんでもない甘い考えだったということがわかった。友達にも電話を入れたが、私は必要以上に気を使わせてもいけないと思い、連絡先は最小限にとどめた。

 7月14日午前、私は南林間にある大和成和病院に入院した。その病院は3階建てのまだ新しい病院だった。受付を済ませ、血液やレントゲンなど必要な検査を済ませてから2階の病室に案内された。
 4人部屋でゆったりとした病室である。清潔感も感じられた。私は同室の患者にひと通り挨拶すると、先輩の患者から、
 「お宅はどこが悪いのかね?」と聞かれた。
 「心臓です。バイパス手術です」と答えると、
 「何本?」
 「3本!」
 「その若さで!」
 同室の患者は3人とも70代前半のお年寄りばかりだった。私のように40代後半の患者はいそうにない。そのうちの1人が入院生活や手術のこと、外科部長の南淵先生は、関東でも4、5番目に入る指折りの名医だということなどを親切に教えてくれた。
 患者の大半は北里大学や東海大学、聖マリアンナ医科大学などの付属病院から送られてくる人たちが多かった。このほかにも私が入院中に、町田市民病院、伊勢原協同病院などからも患者が移送されてきた。
 その日、私が休憩所になっている二階の病棟はずれのロビーで休んでいると、漫画などが置いてある小さな図書棚に新聞記事のコピーが置いてあるのが目にとまった。
 その記事には狭心症で手術を受けた患者の話や南淵先生が、心臓を止めずに動かしたまま「ミッドキャブ(低侵襲冠状動脈バイパス手術)」と呼ばれる手術をすることなどが紹介されていた。
 〈心臓を止めないで手術をするのか。これはすごいな〉私はそうつぶやくと、これから自分に訪れる手術への不安が徐々に消えていくのを感じた。

 私の担当医は心臓外科の南淵先生と倉田篤先生、佃和彦先生の3人編成だった。手術日は7月27日と告げられた。私はその日まで脳のMRI検査や、心臓・大動脈の超高速CTスキャン、肺のレントゲンと呼吸機能検査、ホルダー心電図、肝臓・腎臓エコー、胃カメラなどの検査を受けることになった。
 問題なのは心臓カテーテル検査である。私はこの病院を紹介してくれた東名厚木病院で初めてその検査を受けていたが、大和成和病院に転院したのだから、ここでも最初からカテーテル検査をやるのだと思っていた。患者が病院を変わった場合、検査結果を持参しても、同じ検査をやるのがこの世界の常識だ。これが患者に不必要な苦痛とコストの負担を強いることになることは言うまでもない。
 ところが、私の意に反してカテーテル検査は行われなかった。これについての説明は特になかったが、それは南淵先生が紹介病院の検査結果を100%信頼しているからだと思われた。従って無駄な検査をやる必要がないのである。これは南淵先生の判断なのか、それとも病院のやり方なのか私には分からない。だが、患者の負担を減らすという意味ではとても賢明なやり方であると思われた。後で分かったことだが、南淵先生は紹介病院の検査データから、心臓の裏側に冠動脈とは別にもう一本の血管に狭窄部分があることを発見していた。
 何日か経過してから私は胃カメラの検査に呼ばれた。麻酔薬を口に含んでそれを喉に溜めて待っていると、突然心臓発作が起きた。多少緊張しているせいもあったのだが、私はどうしようか、言うべきか、それとも言わないでこのまま検査を受けようかと一瞬迷ったが、やはり言うべきだと思って検査の先生に告げると、直ちに検査は取りやめとなった。
 「薬を飲みましたか」
 「いいえ、食事をしなかったので、飲みませんでした。それに薬のことは何も言われていませんでしたので…」
 「何やってんだ、ちゃんと説明しないと駄目だろう」
 先生は看護婦さんに怒ったように言うと、すぐにニトロを持って来るように指示した。
 「胃カメラは手術の後でも構いません。手術前に何が何でもやらなければということもありませんし、胃よりも心臓のほうが大事ですからね。今日はこのまま病室に戻って休んで下さい」
 看護婦さんが持ってきたニトロを口に含まされると、私は車椅子に乗せられ病室に戻った。胃カメラは苦しいし心臓とは直接関係ないので、できることなら受けたくない検査である。それが先送りになっただけでも一安心だ。私はこの分だと手術前に胃カメラはないなと1人合点して喜んでいると、翌日、看護婦さんがやってきて、「山本さん、明日、胃カメラの検査をしますので、今度は薬を忘れずに飲んで下さいね」と言ってきた。
 〈何だ、結局、手術前にやるんじゃないか〉胃カメラの苦痛が先送りになった喜びもつかの間、私は翌日の午後胃カメラの検査を受けることになった。
 この前のように麻酔薬を口に含み喉のところに溜めて先生が来るのを待っていると、やがて「はい、ゴックンして飲んでください」と言われ、検査が始まった。
 「今日は大丈夫ですね」
 「はい、大丈夫です。先生、喉がおかしい感じがするのでよく診ていただけますか」
 「わかりました」
 私は左肩を下にしてベッドの上に横になった。そしてマウスピースを口にくわえると静かに目を瞑った。私は胃カメラの検査を受けるときはいつも目を瞑って検査が終了するのを待つようにしていた。どのくらい時間が経過したろうか。いつまで経ってもカメラが入ってこない。〈いったいどうなっているんだ〉待っている方としてはじれったくて仕方がない。イライラしてくる。私が〈この先生、何してんだよ、早くやってくれよ〉と思う間もなく、
 「はい終わりました」と告げられた。
 「えっ、もう終わったんですか?」
 「ええ終わりましたよ、喉もよく診ましたが、特に異常はありませんでした」
 「先生、本当に診てくれたんでしょうね?」
 「ええ、診ましたよ。多少胃炎がありますが、これは手術にはまったく問題ありません」と言って、撮影した画像を見せてくれた。
 私はこんな胃カメラがあるのかと思い、すっかり感激してしまった。病室に戻るとき、看護婦さんにその話をすると、
 「ここの先生はとても胃カメラが上手だと言われています。どの患者さんもそう仰っていますよ。私も胃カメラを受ける時は、ここの先生に診てもらいたいと思っています」
 「幕が開いた時には芝居が終わっていた」とはこのことであろう。正に気がついたら検査が終わっていたのである。私はこの胃カメラにすっかり感激してしまい、退院後、南淵先生のことを話すときには、この胃カメラの先生のことも一緒に話すことにしている。
 検査は1日に1つないし2つで、私はのんびりとした気持ちで手術の日が来るのを待っていた。その間、手術をした患者や退院していく患者、新しく入って来る患者とも交流ができ、入院生活にもすっかり慣れてきた。

 手術の3日前に倉田先生に呼ばれて細かい説明を受けた。いわゆるインフォームド・コンセントである。当初3本と言われていた血管の狭窄は、結局、冠状動脈を含めて4本だということが分かった。こうなったら3本も4本も同じだという気持ちになった。
 手術は心臓の動きを止めて、人工心肺を使って行うという。私はミッドキャブによる手術を期待していたが、バイパス四本ではとても無理だと言われ、諦めざるを得なかった。時間は約6時間である。
 倉田先生によると、この人工心肺を使った手術というのは、様々なリスクを伴うという。それは必要な臓器に十分な血液が供給されなかったり、脳や腸、腎臓の血管が閉塞することがままありうるということであった。つまり、心臓の血管に動脈硬化のある患者は、他の血管にも動脈硬化がある可能性があり、この血管にこびりついた「血栓」(血液のかたまり)が、人工心肺を用いた時に、血管からはがれて体中をさまよい、他の細い血管を詰まらせてしまうというのである。特に脳の毛細血管に入って詰まるのが脳梗塞で、その結果、手足に麻痺が起きたり言語障害などの後遺症に悩まされる。
 従って、バイパス手術の際に、詰まった血管を切り取ったりしないでそのまま残しておくというのは、こうしたリスクを防ぐための最低限の措置なのである。倉田先生はネガティブな情報も含めて予測されるあらゆる事態を話してくれた。
 私は輸血を必要とする事態が起きるかも知れないので、輸血の承諾書にも署名して下さいと言われた。輸血は5分5分であるという。幸いなことに、他の臓器には異常が見られないため、合併症のリスクは極めて小さいという説明も受けた。後は感染症に気をつけるだけである。
 私はこのとき素朴な疑問を倉田先生にぶつけた。
 「先生一度止まった心臓は再び動くんでしょうね」 
 「ちゃんと元のように動きますから、安心してください」
 馬鹿なことを聞いたのかなと思ったが、患者にとっては一番大事なことである。一度止まった心臓が、永久に動かなくなったらそれこそ一大事だ。
 南淵先生は心停止が90分以内であれば、心臓はまず障害を受けない。つまり心不全にはならないと言っている。従ってこの90分以内に冠状動脈にバイパス・グラフトを縫いつけるのである。
 看護婦さんの話だと南淵先生は大学病院でも10時間はかかる大手術を、5、6時間ほどでやってしまうという。まさに神業でしかない。先生は自分のことを「職人」と言っているようだが、私は入院中、他の患者や看護婦さんに南淵先生のことを話すときは、「血管縫合(バイパス・グラフト)の魔術師」と呼んでいた。

 手術の日、私はまんじりともしない朝を迎えた。手術室に入るのは午前九時である。それまでに下剤を飲んで通じを済ませたりして時間が来るのを待った。看護婦さんが、麻酔の先生が朝の交通渋滞で少し遅れると告げてきた。しばらくして気分をやわらげる注射を打たれ、徐々に意識が朦朧としてきた。私はまだ意識のあるうちにストレッチャーに乗せられ手術室に向かった。途中、ナースセンターの前を通ったところまでは記憶にあるが、後のことは麻酔が醒めるまで一切何も覚えていない。
 家族の話だと、手術室に入ってから出てくるまで約六時間。その間、コーディネーターである古川知子さんから手術の様子が逐一報告されたという。
 手術は両足の表面にある大伏在静脈と胸板の裏側を縦に走っている2本の内胸動脈のうち1本を切り取って、それを冠状動脈の正常と思われる部分につなぎ、血液の流れを新しく作るというバイパス手術である。
 分かりやすく言うと、交通渋滞を解消するために、混雑している旧道をそのままにして、新しい迂回路、いわゆるバイパスを作る工事と同じである。手術室には南淵先生、倉田先生、佃先生の3人が入ったと思う。他に麻酔医、人工心肺などを担当するME(臨床工学技師)、看護婦さんなど総勢8、9人ぐらいのスタッフではなかったろうか。
 手術が終わると、南淵先生がやってきて、家族に「四本ともすべて無事に終わりました。いま最後の縫合を行っています。輸血はしなくて済みました」という報告を受けたという。 
 ICU(集中治療室)に入った私が眼を醒ましたのは午後6時半ごろである。家族が来ていて、声をかけてくれたのを覚えているが、人工呼吸器をつけているため話をすることができない。
 娘の話だと、鼻や口、首、胸、お腹など体中管だらけで、ベッドのそばには呼吸モニター、心電図モニター、動脈血圧モニター、心拍出量持続モニター、肺動脈圧モニター、酸素飽和度モニターなどの電子機器が置かれ、それに管がつながれていて、まるでロボットのようだったという。
 そのとき私は体全体が熱くて熱くてどうしようもなかったのを覚えている。私は指文字で家族にその時の自分の気持ちを伝えたが、家族はその意味が分からなかったらしくどうしようもなかった。それから一眠りしたが、夜中に眼を醒ますと、傷口はもちろん、腰や背中が痛く、体全体が苦しくて翌朝までとうとう一睡も出来なかった。
 朝八時ごろ倉田先生が様子を見にやってきて、人工呼吸器や管を外してくれた。昨日手術したばかりなのに、もう外していいのかと気になったが、外すと体が一気に楽になった。
 「これもとっちゃいましょう」倉田先生はそういうと、胸骨を外側で止めている針金(のようなもの)まで取ってしまった。手術して24時間も経っていないのに傷口が開かないのかと不安になったが、お構いなしである。この人工呼吸器の管を外すときと、針金を取る時の痛さは体験した者でなければ分からないだろう。

 「山本さん、朝食が出ますから食べてくださいね」看護婦さんがそう言うと間もなく朝食が出てきた。私は介助を受けながらベッドからやっとのことで起きあがった。私は食欲はまったくなかったが、食べないといけないと思い、スプーンを使って重湯とプリンを口に二口、ばかり運んだ。だがたちまち吐き出してしまった。 
 「山本さん、午後になるとICUを出て一般病棟に移りますからね」
 「えっ、もう出られるんですか?」
 「先生がいいって」
 私はホッとして喜んだが、体をどう動かすかということを考えるととたんに憂鬱になった。胸と両足を切っているため、思うように体が動かない。寝ると起きるのが大変だし起きてばかりいると今度は寝るのが大変になるのである。
 私が滅入っていると、交替の看護婦さんがやってきて声をかけてくれた。これからは出来るだけリハビリを自分でするよう心がけること、あまり大事にすると、後で苦労するというようなことを言われて戻って行った。つまり「手術を終えた患者はもう病人ではない、怪我人である。怪我人は従って日柄の問題だ」と言うのである。
 昼食はほとんど手をつけずに、移動の時間がやってきた。私は看護婦さんの介助を受け、車椅子に乗ってナースセンターに一番近い病室に移された。
 「山本さん、トイレは自分で歩いて行って下さいね、どうしても辛いときは尿器を使って下さい」
 話には聞いていたが、こんなに早く歩かせられるのかと思うと正直いって憂鬱になる。私は点滴を引きずって、ヨタヨタしながらトイレに立った。トイレは近くにあるのだが、やっとの思いで辿り着くと、ひとまず、便座に腰をかけてひと休みする。それからおもむろに用足しをするという案配だった。
 一番大変なのは、ベッドでの生活である。寝ると起き上がるのが大変だし、起きてばかりいると今度は体が疲れてくる。どちらも決して楽ではない。開胸手術をしているため、傷口が開くような感じがして仰向けに寝ることにはどうしてもためらいがあり、寝ていても十分に背中を伸ばすことができずとてもつらい思いをした。
 私はベッドを調節して背に当たる部分を45度くらいに起こしている状態が多かった。仰向けに寝ているよりはその方が楽だからである。それでも長時間その状態でいると、体がずり落ちてきて苦痛になる。やれやれという感じである。
 その晩、ベッドに横になっていると、左胸の下の方で、水がチョロチョロと流れるような音がした。何かな、どこかで水が漏れているのかなと思ったが分からない。その音は20秒ほど続いた。本当に水が流れている音がして何だか気持ちが悪かった。次の日、回診に来た佃先生に話すと、
 「術後に心臓や肺に水がたまる場合があるが、それは多分心臓の回りの水が元に戻っていく現象だと思います。特に気にすることもないですよ」と言われた。
 術後3日間ほど微熱が続いたため、ほとんど食欲がなかったが、4日目ぐらいから平熱に戻ると、食欲も出てきて、かなり楽になった。
 私の場合、困ったことは痰が出なかったことである。胸に傷跡があるので、痛みのため大きな咳をして痰を吐き出すことが困難であった。咳をするのが怖いくらいである。ところが、この痰をとらないと、痰が気管支に詰まって肺炎を併発してしまう。
 私はできるだけ痰を出そうと頑張ったが、空咳をしても一向に出て来ない。それで私は痰を出すのを諦めてしまった。痰が出たのは1回くらいで、入院中ほとんど痰が出ることはなかった。

 「山本さん、今日から100メートル歩くリハビリを始めます」
 病院の端から端まで往復するとちょうど百メートルなる。私は心電図をつけリハビリ技師のナビゲート受けながらを、廊下の手すりにつかまるようにしてゆっくりしたペースで歩き始めた。足を一歩一歩踏み出すようにして歩くのだが、バランスがとれなくて時々ふらつくこともあった。
 私の場合、胸の傷より足の傷のほうが大変だった。両足の大伏在静脈を切り取っているため、術後、足がむくんだままの状態だった。いわゆる下肢浮腫知覚異常である。
 右足より左足の方がむくみが強かった。足を下げていると、血液の戻りが十分でなくどうしてもむくみが激しくなる。だからベッドにいる時は出来るだけ足を高く上げるようにした。
 術後2日目だったと思うが、右足の縫合した部分が破れてポタポタと出血した。ナースコールをすると、すぐに佃先生が来て再縫合してくれた。その時、この傷のリンパ液が止まらず、退院を遅らせ、かなりのあいだ通院を余儀なくさせることになるとは思いもしなかった。それから2日くらいはあまり無理をしないようにした。
 術後4日目である。
 「山本さん、今日から階段を歩く練習をしてください」と告げられた。
 私は1日に2回ほど2階の病棟から1階の病棟まで降りて、階段の昇り降りの練習をした。行動範囲が広くなると、入院生活にも楽しみが出てくる。私は1階の売店で新聞や雑誌を買ったり、外来患者の様子を眺めるなど、退屈を紛らわせるこの階段歩きは適度な刺激になった。
 術後、1週間ほどしてから、私の病室にKさんという患者が入ってきた。お年は71、2歳だったと思う。Kさんはバイパス1本の手術である。もちろんミッドキャブであった。
 「良かったですね。心臓を止めないでやりますので、患者の負担は小さいし、快復も早いですよ」
 私は医者のような口振りで話した。それだけ快復も順調に推移して、気持ちにも余裕がでてきた証拠である。
 「山本さんとどっちが先に退院できるでしょうかね」
 「もちろん、私の方が早いでしょう」
 私はそう言ったが、手術後のKさんの快復は予想以上に早く、あれよあれよという間に元気を取り戻し、6日目にカテーテル検査をするとその日のうちに退院してしまった。まったく信じられないような話である。
 Kさんは退院する時、私のところに挨拶に見えると、
 「あまりにも退院が早いので、他の患者さんに申し訳なくて。ですから大きな声では言えないんです」
 としきりに退院することを恐縮していた。私は後から入院してきたKさんに、完全に先を越されてしまったが、バイパス1、2本の手術で合併症も感染症も起きなかった患者は、本当に快復が早かった。

 病院というところは面白いところで、長い間入院していると、患者同士の情報が実に早く伝わるし、それにさまざまなアクシデントが起きるということも分かった。
 患者はできるだけ、患者同士で情報を交換して。体験談を話し合うのがベターである。その意味では個室よりは大部屋の方がいい。
 ある患者は、カテーテル検査が終了して、管をそけい部の大腿部の動脈から抜く時に、先の方が折れて血管の中に残ってしまった。急遽、オペして取り除いたが、これはまったく予想もできなかったことである。
 また、Mさんはカテーテル検査が終了して2、3日後、そけい部の大腿動脈に瘤(動脈瘤)ができて、その瘤を取り除く手術を行った。
 このほかSさんはカテーテル検査の最中に心臓が一時停止して、電気ショックを受けたことなど、医療現場では実にさまざまなアクシデントが起きている。
 カテーテル検査では検査後に止血をして、大腿動脈の場合は四時間から六時間は安静にしていなければならない。上腕動脈でも3時間は安静である。私の場合は左腕の上腕動脈だったが、止血をするためプラスチック状のもので押さえて強い圧をかけているため、腕に痛みとしびれが出てくる。だが止血が進んでいないと、すぐには圧を弱めることができない。私が何気なく腕を下ろすと痛みがとれて楽になったので、痛みが出てくると常に腕を下げた状態にしていた。
 ところが、止血したはずの動脈から血液が漏れていて、大変な目にあった患者もいる。腕や足が紫色に腫れて変色してしまうのである。時間が経てば元に戻るので心配はないが、初めての患者はその症状に驚いてしまう。動脈ばかりではない。バイパス手術を受けたSさんは、胸骨についた細菌が増殖して感染症にかかってしまい、化膿が止まるまで10か月以上にわたる長期入院をよぎなくされた。
 手術室は無菌ではない。このSさんの場合は感染症にかかりやすい体質だったのかも知れないが、患者の立場からすると、〈何で自分だけがこんなふうになるんだ〉という気持ちも分からないわけではないが、運、不運というのもやはりある。私の右足のむくみがひどくて、縫った部分が破れて出血したのも、やはりアクシデントの一種だと思う。
 一方、看護婦さんの勘違いによって事故が起きる場合もある。ある患者は検査室に呼ばれて、そのまま入って受けようとしたら、看護婦さんが入ってきて、検査用紙を渡され、別人だったことが判明した。
 手術前のある時である。私が2階の休憩室で休んでいると、
 「山本さん、注射です」と言って看護婦さんがやってきた。注射を打とうとするので、私が、「これ何の注射?」と聞くと、
 「山本さん、耳から採血しなかった?」と聞かれたので、
 「いいえ」と答えると、その看護婦さんは、
 「ちょっと待って」とナースセンターにとって引き返すと、また戻ってきて、
 「ごめん、間違い」と言って、戻って行った。その注射は、糖尿病の薬だったのではないかと思うが、これは多分、私のほかに同じ「山本」という患者さんがいて。看護婦さんが間違えたのではないかと思う。
 ある時期、「Kさん」という苗字の患者が3人ほど入院していた時期があった。これでは名前を呼ばないと苗字だけでは間違えてしまう。
 私と同じ病室にいた「Kさん」は、食事の時、自分の食事だと思って食べてしまったら、後で別の「Kさん」の食事だということがわかって驚いてしまったと話していた。
 これが食事だからまだいいが、治療や手術だととんでもないことになる。横浜市立大学付属病院の患者取り違えの事故はまさにこうした気のゆるみから起こったのだと思う。
 私はその日から検査を受けるときは、必ず自分からも名前を言うことにした。
 このように、病院では医師も患者も予期しないことが次々と起きるが、患者の異変によるアクシデントは仕方がないとしても、患者の取り違えによる事故はあってはならない。この大和成和病院でも起きることだから、他の病院では日常茶飯事に起きていることだろう。
 これを最小限にくい止めるには看護婦も医師も「ほうれんそう」ならぬ「ほうれんかく」を繰り返すしかないと思う。つまり、患者に対しても、看護婦さん同士でも、医師と看護婦さんの間でも、「報告」と「連絡」そして「確認」を怠ることなくやるということである。ちなみに「そう」とは「相談」の意味である。
 われわれ患者は、医師と病院を信頼して治療をお願いしている。つまり命を預けているわけで、「間違えました」、「うっかりしました」では済まされない。
 品物であれば取り替えたり交換することも可能だが、命ではそれが出来ない。医療関係者はご承知だと思うが、これが他の商売とは決定的に異なっているところなのである。だからわれわれ患者サイドとしては、常に緊張感を持って仕事をしていただきたいと思っている。
 こんな信じられないような出来事もあった。私がまだ手術前の時である。同じ病室に手術の終えたYさんという患者がいた。バイパス3本と風船によるグラフト手術を受けたと話していた。
 病院では10日ごとに医療費の請求書が回ってくるが、Yさんが手術を受けた時の請求書の手術代は700万円になっていてさすがに驚いたと言う。
 最初Yさんは、〈700万円で命が助かったと思えば安いものだ〉と思ったそうだが、それにしても高過ぎはしないかということになった。奥さんが私にも請求書を見せてくれたが、本当に700万円になっていた。
 私の場合もバイパス4本でYさんと同程度の手術が待っている。私は国民健康保険の患者で3割の自己負担だから、仮に私も700万円だとすると、手術代だけで210万円になる。
 私はこれではおちおち病気もできないなと思うと、急に支払いのことが心配になってきた。
 だが、これは後で調べた結果、間違いだということがわかった。再発行された請求書では手術代は半分になっていた。Yさんはとても喜んで、ベッドから私にピースサインを投げかけてきたほどである。
 どうしてこのような間違いが起きたのか分からないが、同じ病室にいたOさんはこの話を聞いて、自分のことではないのに、「責任者が何も言ってこないのはどういうことだ。少なくとも事務長ぐらいは釈明に来るべきだ」と言って怒っていた。

 手術後1週間ほどして、心臓カテーテル検査を受けた。バイパス手術を施した血管に血液が正常に流れているかを確認するためである。
 この病院でのカテーテル検査は初めてであった。私は前の東名厚木病院での検査に比べて今度は余裕を持って観察することができた。検査中に先生が話している「ニトロ10CC」とか、造影剤を注入するときに「体が熱くなりますよ」という言葉で、自分がどのような状態になるのかということも理解できた。
 検査の結果、手術は完璧、芸術的に成功していることがわかった。さすが「バイパス・グラフトの魔術師」といわれる南淵先生である。
 こうなってくると、もはや退院は時間の問題だ。このころになると私は病室も2回目の移動で、ナースセンターより一番遠い部屋に移された。私はすっかり病人の古参兵気分だった。
 ある時、待合い所に座って手術を終えた患者同士で、雑談をしていると、2日後にカテーテル検査を行うという患者が私たちの話に耳を傾けて、近づいてきた。
 その患者は東海大学から紹介されてきた人で、カテーテル検査の結果、風船療法でいくかグラフト手術を併用するか、どれでやるかまだ決まってないと言う。だが、とても不安そうな様子で私たちにたずねてきた。
 患者というのは、どんな治療をされるのも不安である。まして初めての検査や手術となると、その不安は極限にまで高まる。心臓という場所が場所だけに〈果たしてうまくいくだろうか?〉〈失敗しないだろうか?〉―手術の前日などは不安と緊張でなかなか眠れない。
 私のようにバイパス四本もやった患者にとっては、PTCA(風船・ステント療法。現在はカテーテルインターベンションといわれている)などは手術のうちに入らないほどの軽い手術だと思っているが、初めて受ける患者にとっては大手術である。
 私は話を聞いていて、どうすれば不安を少なくしてあげられるだろうかと思い、たまたま私の右に座っていた人がバイパス2本でミッドキャブの手術をした患者、左が私を含めてバイパス4本の手術をした患者であったため、
 「この人は心臓を止めないでやった軽症例、私たち2人が人工心肺を使った重症例だと説明、お宅の場合はPTCAですから安心例です。心配にはお呼びませんよ」
 と言ってあげたら、そばで聞いていた看護婦さんが、「山本さん、うまいことを言うわね」と誉められてしまった。
 患者にとっては医師の説明よりも、体験談が随分と参考になるときがある。いくら医者でも手術を受けた患者の気持ちは分からない。術後、どのくらいで意識が回復したか、熱がどのくらい続いたか、苦しさはどうであったか、どのくらいで歩けるようになったか、食事を食べられるようになったのはいつごろかなどは、手術を受けた患者でなければ分からない。
 そういう意味ではできるだけ患者同士で情報交換をするのがいい。しかも個室よりは大部屋の方が情報が入ってくる。私の1週間後に、バイパス3本の手術を受けたMさんは、私が快復する様子をつぶさに見ていたし、私の話も聞いていたので、自分も同じような快復の経過をたどるのだろうと思うと、とても参考になったという。
 10日ほど経ってから南淵先生が回診に訪れた。
 「山本さん、もう退院していいですよ。良くなった人はどんどん退院してください。宣伝にもなりますからね」と言われた。
 私は「えっ、もう退院していいの」と思っていると、先生が「いつ退院しますか」と聞くので、答えざるを得なくなり、少し考えてから、「10日」と返事をしてしまった。自分でも「果たして大丈夫かな」と思ったが、先生に言ってしまったのだから、仕方がない。同室の患者は「その状態では絶対無理だよ」と言ってくれた。
 しばらくして婦長の明円さんがやってきて、「山本さん、退院するって言ったんだって」と聞きに来た。「先生がいいって言ったから」と答えると、婦長さんはまじまじと私の様子を見て、「それじゃ無理ね。2日ほど伸ばしましょう」と言ってくれて、結局12日になった。
 私の場合は、右下肢の再縫合した場所のリンパ液がなかなか止まらず、倉田先生も「山本さんは足の病気になってしまったね」と言われたほどである。その傷口がふさがらないまま8月12日、退院した。手術をしてから2週間後である。1か月ぶりの娑婆であった。
 
 退院する前のある日、私がベッドで休んでいると、南淵先生がひょっこり現れて、自分の部屋に来るように言われた。それを見ていた同室の患者も何事かと聞いてきたが、見当もつかない。〈退院するのに何の用事だろう〉と思って先生の部屋に出向くと、お茶が出てきたりお菓子が出てきたりして驚いた。
 南淵先生はお茶を勧めながら、「手術を受けた患者さんたちで考心会(心蔵手術後の生活を考える会)という会をつくっています。頓宮さんという方が会長で、年2回講演会や患者同士が情報交換を行って術後の生活に役立てています。会報も出しているんですが、なかなか人材が足りなくて困っているんですよ。山本さんは編集の仕事が専門でしたね。ひとつお手伝いしていただけませんか」と言われた。
 こちらは命を助けていただいているので、お断りするわけにはいかない。
 「私にできることがあれば…」と返事をすると、南淵先生は「そのうちに頓宮さんをご紹介しますのでよろしく」と言うと、今度は日本の医療業界や自分自身のことを話し始めた。そして「山本さん、私の給料はいくらだと思いますか?」と尋ねるのである。
 一介の患者である私に、なぜそんなことを言うのか分からないが、私が返事に困っていると、南淵先生は「私は榊原記念病院の3倍もいただいています。それだけこの病院が私のことを評価してくれているので、私はこの病院を絶対に辞めません」と言うのである。私は「先生のような方に辞められては患者が困ります」としか言うことができなかったが、南淵先生のこの病院に対する強い思い入れが分かったような気がした。
 南淵先生は奈良県立医科大学を卒業して、国立循環器センターレジデント、シドニーセント・ビンセント病院フェロー、国立シンガポール大学、新東京病院、湘南鎌倉総合病院などを経て、平成八年から大和成和病院に心臓外科を開設された。専門は虚血性心疾患の外科治療(心拍動下環状動脈バイパス手術)である。また、岡山大学医学部、北里大学の講師をつとめられている。
 「山本さん、私はいつも真剣勝負ですよ。心臓外科医は結果がすべてですからね」
 南淵先生に言わせると、大学病院というところは駄目らしい。大学病院は権威や面子ばかり重んじるため、責任をとりたがらない。何かあるとすぐ医師が変わるし、業者からの賄賂やピンハネは日常茶飯事、しかも臨床経験を積まずに論文を書くことだけで助教授や教授に出世していく医師が圧倒的に多いのだそうだ。そうした、大学病院が南淵先生のところに患者を大勢紹介してくるのである。私はその話を聞いて、それまで思っていた「大学病院だから安心だ」という神話は一挙に崩れてしまった。
 南淵先生は医療の現場をガラス張りにするため、手術中の様子をビデオに収め、カルテやレセプトといっしょに情報を患者に公開している。
 当然、私の手術の様子もビデオに撮られているはずで、退院するとき、看護婦さんにもらいますかと言われたが、自分のビデオを見るのは嫌なので、私はもらうのを辞退した。「請求すればいつでももらえますから」と言ってくれたので、私は後々の楽しみのためにとっておくことにした。
 退院する時、南淵先生は紹介元の病院に、報告書を作成して私に持たせてくれた。これに手術の概要、術後の経過、投薬などの記述に加え、手術の成果を示す画像までついている。
 南淵先生はこうも言われた。
 「山本さん、医者にとって隠す情報は何もありませんよ、インフォームド・コンセントは当然ですが、これからは医師のアカウンタビリティ(説明責任)が求められてきます。私は情報開示を請求されれば喜んで公開します」
 そして、心臓外科医を選ぶ条件として「年間100件以上をこなす医者のもとで手術を受けるべきです。医者がベストの手順で手術を行うには、最低それぐらいやっていないと水準を維持できません。患者さんは手術を受ける前に、先生は1年に何人の患者さんを手術しますかということを聞くべきなのです」と言うのである。
 これだけの言葉は、相当の自信が裏づけになっていないとなかなか言えない。
 医療にも限界がある。ときには危険やリスクを伴うが、患者にとっての最大のリスクは「何がリスクか分からない、知らされない不安」だと思う。医者が口にする根拠のない気休めを言われるより、正直に真実をありのまま言われる方がよっぽど信頼できるのである。
 南淵先生は手術を受ける患者に対して、「あなた不安でしょう。実は私も不安なんですよ」また、「私は家のローンを払うためにこの仕事をしているんですよ」と言う。
 すると患者は思わずニッコリさせられる。南淵先生はそう言うことによって、医者と患者の垣根を取り払っているのだと思う。つまり、患者に「この医者は自分と同じ感覚をもった人間なんだ」と思わせているのである。
 これは医師としての倫理以上に、南淵先生の人間性に基因しているものと思われる。しかも患者のリスクは執刀する自分のリスクであり、手術の結果が悪ければ、自分の生活に影響するということを平然と言ってのけるのである。私に「真剣勝負」だと言った理由の一つもここにある。
 「患者さんはお客様ですから、われわれは商売としてどうしたら患者さんに喜んでもらえるか、常によりよいサービスを提供したいと思っているんですよ」
 退院後、私は「考心会」に入会し、幹事役を仰せつかることになった
 もちろん、南淵先生や倉田先生に命を助けていただいたという感謝の気持ちもあるが、一方でこうした医師がいることを少しでも世の中の多くの人に知ってもらいたい、そのプロパガンダの役割を担いたいと思っているからである。(2002年4月20日『文芸あつぎ』より)

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