厚木の大名 <N05>

関宿藩主牧野氏系譜       平本元一

宝永2年(1705)曽雌知義寄進状(『厚木市史』近世資料編(1)社寺から転載
 江戸時代前期に相摸国愛甲、津久井等に領地を有した下総関宿藩久世氏の系譜については前号で紹介した。この号では、関宿藩主のうち久世氏とともに幕閣の重要な位置を占め、厚木市域の多くの村々を支配した牧野氏についてその系譜を見てみることにする。
 関宿藩の前期の藩主の在藩は短期間であり、移封、転封が繰り返されている。その中で、久世・牧野の両氏の代になり、始めて長期の安定した藩経営がなされるようになった。
 藩主牧野成貞は寛永11年(1634)、牧野儀成の次男に生まれた。寛文10年(1670)家老となり、延宝8年(1680)綱吉の将軍就任に伴い幕臣となり、側用人を勤め、従四位下侍従兼備後守となった(『寛政重修諸家譜』)。
 成春は天和2年(1682)、家臣大戸吉房の子として生まれた。元禄6年(1693)、将軍綱吉の命により成貞の養子となった。従四位下備前守。
 成貞の関宿藩への入封は、天和3年(1683)下総国葛飾・相馬・猿嶋・岡田郡と武蔵・常陸国で2万石を加増されて、旧領と合わせて5万3,000石となり、久世重之の後を継いで行われた。元禄元年(1688)には、和泉・下総・常陸・下野の四国で2万石を加増されて合計7万3,000石を領することとなった。この石高は関宿藩の歴代の藩主において最高のものである。
 さて、成春は元禄8年(1695)成貞の隠居により家督を譲られた。この3年後の元禄11年(1698)愛甲郡内、つまり厚木市域の多くの村々が関宿藩領となり、元禄12年(1699)、13年(1700)に検地が行われた(『新編相摸国風土記稿』)。
 では、次に成春と愛甲郡内の村々との関係を示す資料を見てみることにしよう。厚木市中荻野に巌島神社という小さな神社がある。『愛甲郡制誌』によれば厳島神社は、元禄13年牧野備前守成春の家臣、曽雌常右衛門知義が勧請したもので、初めは弁才天と称し、宝永3年(1706)戒善寺の日清という者が再建して、同寺の寺社とし、慶應3年(1867)厳島神社と改め、また、元は弁天山にあったが明治13年(1880)に今の地へ移したという。そして、戒善寺には次の寄進状が所蔵されている。
寄進之覚
一大師之作弁財天 一躰 二重厨子ニ入金襴斗帳
一九尺四面之堂
一金燈籠
一神酒鈴
一鰐口
右今度新規ニ権現山並六畝廿歩之山買調、永代辨財天之社地ニ令寄附候、自今以後右之支配其方江預置候間、社地之竹木致繁栄候様ニ心懸、向後堂之可被加修造ニ者也
宝永弐年乙酉八月吉日 曽雌常右衛門尉 源知義(花押)
中荻野村名主 市兵衛殿(『厚木市史』近世資料編(1)社寺)
 源知義(曽雌常右衛門)が弁天社地として権現山に六畝廿歩の土地を寄進したことが分るが、権現山の地名は確認されていない(『厚木の地名』厚木市文化財調査報告書第36集では弁天山が確認されている)。
 成春は宝永4年(1707)3月26日、26歳で没し、久世重之が再び藩主として在藩することとなるのである。
 次号では、厚木市域を中心とした久世・牧野両氏所領の村々と検地について見てみることにしよう。

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