今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO54(2003.04.15)       半玉さん日記

 昭和9年(1934)に創刊された厚木花柳界の情報誌『よみもの相武』=写真左=には、「花柳界裏の裏」と題する「半玉さん日記」=同右=が掲載されている。
 「半玉(はんぎょく)」とは、「まだ1人前でない、玉代(ぎょくだい)が半分の芸妓。おしゃく。雛妓」(『広辞苑』)のことである。 「半玉さん日記(1)」は、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)の「○○家△△子」の日記。冒頭には「厚木町のある家のお酌さん(名前は公表して呉れるなとのお頼み故、熊ざと蔭して置きます)が、家業柄に似合ず筆達者にモノしたものを掲載した次第です。サァー誰でせうかね」と記されている。
 以下、その「半玉さん日記(1)」を紹介してみよう。
 〔月曜日〕
 この頃姉さんは手紙ばかり書いているワ、スーさんに呼出し状かしら、それとも何かの無心かしら。
 「チーちゃん、これ出して来て頂戴な」
 「姉さんは近頃手紙を書くことが商売のようだワ」と云ったら、
 「なんでもいいから、早く出して頂戴よ」と叱られた。
 小さい声で、おさらいをしながら手紙を出しに行きました。姉さんの出す手紙は、佐藤銀次郎ですってさ。姉さんはいつ男になったのかしら、家に戻ると姉さん達はかなり念入りにお化粧をしているので、
 「姉さん、妾ィも呼んで頂戴ね」
 「あゝいいよ」と云って、いそいそと出て行きました。
すると、間もなく電話で、「茶目子にすぐ」というの。妾ィほんとにうれしかったわ。駈ける様にして水明楼さんに行くと、お客さんは生糸屋さんの方らしかった。姉さんも初めてだと、廊下で耳打ちしてくれた。
 「今晩はー」
 「ヤアー可愛いい妓だな、こっちへおいで」
 すぐと抱いたり、かゝえたりした。
 「いやよ、妾ィ男の方きらい」と云いますと、お客様が、
 「ではお前、なにが一番好きだい」
 「妾ィお人形さんが一番好きよ」
 「そうか、では買ってもらえ」と、5円現ナマを投り出したの。
 姉さん達の話を聞いたが、生糸の価が下がったので、糸屋さん大弱りだなんて嘘だと思ったワ。お客様はひっきりなしにお酒を召し上がっていた。(中略)
 姉さんが爪弾きで、
 「お唄いなさいな」と云うと、お客さんは常磐津だの、清元だのを唄ったが、ホントに巧いものだわ。12時が鳴って、妾ィが眠そうな顔をしていたら、
 「茶目はもう帰そうか」とおっしゃると、姉さんが、「エ、チーちゃん、帰ってもいいことよ。お家へそう云っておいて頂戴ね」
 姐さん達はやっぱり凄いのよ、いつ話をつけたのかと思ったの。姐さんは妾しの手に50銭のお宝を2つ下すったの。
 「ありがとう。姐さん御用はー」「いいのよ……」
 お家へ帰ったら1時だった。
 (火曜日略)
 昭和9年といえば、現在もうたわれている「厚木音頭」が発表された年である(「今昔あつぎの花街」29)。その「厚木音頭」は「繭の山から 厚木が明けりゃ 銀のうろこの鮎おどる」で始まる。
 昭和10年の「厚木局電話加入者名及番号」を見ると、13軒の「繭糸商」と、製糸会社1、蚕種製造業1、養蚕用具商2が掲載されている。当時の厚木局電話加入総数は246であった。この数字からも生糸産業が地元経済を支える 大きな力となっていたことがわかるであろう。

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