今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO51(2003.03.01)       熱海心中後日譚
.

昭和3年12月の厚木芸妓おつとめ番付(『厚木の商人』)
  昭和3年(1928)2月のある日、厚木町(市政施行以前の旧愛甲郡厚木町)の一青年と、古沢家の抱芸妓きく江が姿を消した。
 二人の行方はなかなかわからず、厚木での最後の足取りは「旭町の花月から平塚へ行った」というものであった。
 二人が静岡県の熱海で心中し、はかない人生を閉じたのが分かったのは、それから4日後のことであった。二人は「死んだら合葬してください」という遺書を親戚や友人に送り、行く末を来世に託したのであった。二人の遺骸はそれぞれの親元へ引き取られたが、きく江の親元からの申し入れによって、二人は祝言をあげることになる。
 当時の新聞記事によれば、青年の家では、午後三時、親戚、知友が集まって涙の葬儀を済まそうとしている時であった。「是非、祝言をさして、二人を合葬して貰いたい」との申し入れを受けて、今は亡き青年の心の中を察して「五十円の結納金」を取り交わし、晴れてきく江を貰い受けることで話が決まった。
 二人の亡骸を並べて、いともしめやかに祝言をとりおこない、「春雨降りしきる同日の午後7時」、二人の棺は菩提寺へと送られ、永久に添い遂げ、安らかなねむりについたという。
 まさに「泉鏡花の作にありそうな物語は、哀れにも美しい」涙をさそう事件であった。

 昭和3年1月1日の「厚木芸妓組合見番」広告を見ると、当時の芸妓置屋は14軒、半玉を含む芸妓数は40人を超えていた。このうち、「古澤家」内としては、「福千代、小舟、菊枝、澤江、藤江」という5人の芸妓名が見える。一青年と来世を誓って旅立った「きく江」は、この「古澤家内」の「菊江」であったろう。
 昭和3年といえば、厚木地方の養蚕は大当たりで、厚木繭市場は活気づき、夏の厚木神社祭典も特に多くの人出でにぎわった年であった(「横浜貿易新報」)。
 昭和3年12月には、大相模新聞社から、「厚木芸妓おつとめ番付」が出されるのも、この年は花柳界が好景気であったからと思われる(『厚木の商人』)。
 「厚木芸妓おつとめ番付」にある芸妓名は、東横綱が藤丸、西横綱が音若、東大関はゆり子、西大関はとき香、以下関脇は梅太郎と力弥、小結は愛子と浦子であり、前頭として39人、十両では4人の芸妓名が記載されている。
 「厚木芸妓おつとめ番付」には、合計51人の芸妓名が記されているが、最下段に「十両」として名がある「茶目子、千代丸、奴、豆若」の四人は、半玉(はんぎょく)と見てよいであろう。
 余談になるが、大磯の坂田山での心中事件が起きるのは、きく江の永久のねむりから4年後。昭和7年(1874)5月。この事件は、「天国に結ぶ恋」として映画化され、同名の主題歌が全国で流行した(『日本流行歌史』)。

 ふたりの恋は 清かった 神様だけが 御ぞんじよ 死んで楽しい 天国で あなたの妻となりますわ
 いまぞ楽しく 眠りゆく 五月若葉の 坂田山 愛の二人の ささやくは やさしき波の 子守唄

.

.