今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO44(2002.11.15)         飯山桜まつりと花音頭・飯山慕情
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飯山花音頭・飯山慕情発表会ポスター(飯田孝蔵)
  明治時代以降、厚木花柳界は相模川鮎漁を売りものとして発展を続け、「鮎まつり」を創設して花火大会も開催した。現在、8月第1土曜日に行われる「厚木鮎まつり花火大会」の発祥は、明治42年(1909)の相模川鮎漁会での花火大会にさかのぼり、翌42年7月からは、相模川川開き花火大会も始まった(「今昔あつぎの花街19」)。
 現在、厚木花柳界の伝統は、飯山温泉に受け継がれて健在であるが、飯山温泉をかかえる飯山観光協会では、春の「桜まつり」に加えて、「秋まつり」も開催している。
 平成14年4月には、第38回「あつぎ飯山桜まつり」が開催され、芸妓衆がかつぐ「さくら輿」がくりだし、飯山観音境内の舞台では、白龍太鼓や芸妓衆のおどりなどが披露された。
 飯山桜まつりは、昔から伝わるわらべ唄に、「飯山のまち」とうたわれている飯山観音のまつりの伝統を引き継いだものである。
 大正14年(1925)の『愛甲郡制誌』には、「毎年四月十二日に法会が営まれ、傍らの競馬場に競馬の行事がある。数百の馬、数千の参拝者でさしもの境内も埋められる。俗に「飯山のまち」と称して其の名遠近に高い(中略)。時は丁度陽春、桜花の時節、付近の花見を兼ねて来り会するものが益々増すことであらう」と記されている。飯山観音からさほど遠くない光福寺には、名木しだれ桜の古木もあった。

 飯山桜まつりといえば、欠くことのできないのが「飯山花音頭」である。
 飯山花音頭 
 ハァー
 飯山飯山に咲く花は
 男心を見るように
 パッと開いてパッと散る
 ソレ
 春の飯山の夕暮は
 霧がつつんだ 霧がつつんだ
 エー 夫婦松
 ハァー
 飯山飯山に咲く花は
 女心を知るように
 ソッと開いてソッと散る
 ソレ
 観音様よお願いね
 主と二人の 主と二人の
 エー 縁結び
ハァー 
飯山飯山に咲く花は
君の幸せ呼ぶように
若い二人が指切の
ソレ
影を映した 花明り
ほんのり浮かぶ   
エー  庫裡橋に

 「飯山花音頭」の作詩は西海利雄。作曲は寒川町在住の作曲家藤沢和光であり、最初は「厚木鮎まつり」行事の一環として発表会が行われた。
 その後、「飯山花音頭」が次第に世に知られるようになると、レコード化しようという話が持ち上がり、昭和49年(1974)にはキングレコードからの発売が決まった。歌手はキングレコード専属の江崎はるみ。振り付けは花柳勝之師匠。昭和49年の桜まつりには大々的なお披露目が行われた(『相模のうた―厚木愛甲編』)。
 レコード「飯山花音頭」のB面には「飯山慕情」が吹き込まれた。作詩・作曲は「飯山花音頭」と同じ西海利雄と藤沢和光。歌手はキングレコード専属の花井真理子。花柳勝之師匠の振り付けである。
 飯山慕情
 恋しさに 泣きぬれ
 かすりが香る 星の道
 思い出ばかりが 溢れて哀し
 流れに落とす ひと雫
 飯山の里に ああ風が吹く

 かなしさに ふるえて
 破れた恋の 日暮れ道
 泣いて笑った この庫裡橋も
 今は昔が なつかしく
 飯山の里に ああ雨が降る
      

ふるさとへ 帰って
迎える人も 無いけれど
森の向こうの 灯があたたかく
母が呼ぶよな 声がする
飯山の里に ああ雪が降る

 

 

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