今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO43(2002.11.01)         七沢・別所・飯山温泉の歴史
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昭和3年に運行を始めた七沢温泉行乗合自動車の往復乗車券(飯田孝蔵)
  明治時代、愛甲郡(相川地区を除いた厚木市域と愛甲郡愛川町・清川村が郡域)には宿屋組合があった。
 「横浜貿易新報」によれば、明治43年(1910)の愛甲郡内宿屋業者は63名。同年2月9日には厚木町(市制施行以前の愛甲郡厚木町)古久屋において新年宴会を兼ねた総会が開催された。
 この総会の直前、宿屋組合第四区の煤ヶ谷村(現清川村)元湯岩沢重次郎ほか4名は、「斯る僻村に在て、一同との交際は致し難し、且つ総会費も出し難し」との書状を、組合正副行事古久屋・高島亭宛に送った。
 古久屋・高島亭は事態を収拾しようと、荻野村(厚木市下荻野)辰巳屋と玉川村(厚木市七沢)玉川館に立合を依頼、人力車に乗って岩沢重次郎方を訪ね、組合規約を示して注意をうながした。
 宿屋組合分裂さわぎの結末については明らかではないが、このゴタゴタの背景には、明治末期から旧厚木町花柳界が急速に発展する状況があったからだろう(「今昔あつぎの花街10」)。
 では、ここで愛甲郡内の温泉について、歴史の概略を紹介しておこう。
 
七沢温泉 明治12年(1879)の「横浜毎日新聞」には、七沢村古根村九右衛宅地から湧出す冷水は「万病によき霊水なりとの評判」高く、近村より来浴するものが多いことが紹介されている。明治22年(1889)の集計によれば、七沢の鉱泉「観音泉」浴客人員は男3,676人、女3,180人。年間6,856人が入浴に訪れていたことがわかる(『神奈川県統計書』)。
 昭和3年(1928)1月3日の「横浜貿易新報」には、福元館・中屋温泉旅館・玉川館が広告を載せ、『愛甲郡制誌』や昭和5年の『文芸春秋』、太田静子の『斜陽日記』にも七沢温泉が登場する。
 昭和41年(1966)における、東丹沢観光旅館組合参加の玉川地区会員は、元湯玉川館、中屋旅館、福元旅館、七沢荘、福松旅館、盛楽苑(以上七沢温泉)玉翠楼(広沢寺温泉)、山水楼(かぶと湯温泉)、静観荘の9軒であった。
 
別所温泉 江戸時代末期頃、岩沢染雄太夫なるものが開いたのが初めであるといい、別所元湯は一名権現の湯とも称した(『愛甲郡制誌』)。明治44年(1911)の「横浜貿易新報」には、「煤ヶ谷には宮の湯、元湯、一の湯の三温泉宿があり、3、4月の外、夏期避暑客は年々増加の有様なり」と紹介されている。
 昭和41年における東丹沢観光旅館組合煤ヶ谷地区会員は、元湯旅館、渓間(たにま)屋旅館、岩間館の3軒であった。
 
飯山温泉 明治9年(1876)調査の『皇国地誌』によれば、湯の気沢の渓水は微濁して硫黄の気があるので、里人は筧をもってこの水を引き、「炉槽にて湯浴するに、大に他湯に異なるところありという」。
 また、明治18年(1885)、大井憲太郎らが中心となって企てた「大坂事件」に連座して捕えられた武藤角之助の調書には、飯山温泉にいる天野政立と山川市郎をたずねたことが述べられている(『綾瀬市史』3巻)。
 武藤角之助は、後に藤沢町(藤沢市制施行以前の藤沢町)2代町長となる人物。晩年に平塚、大磯町長となる天野政立と、山川市郎は自由民権運動で活躍、共に大坂事件に加わって投獄される運命をたどる(『相模人国記』)。飯山温泉は歴史の裏舞台にも登場するのである。
 昭和41年における東丹沢観光旅館組合飯山地区会員は、大和屋旅館、元湯旅館、枡屋旅館、喜楽園、ふる里旅館、山河荘の6軒であった。
 昭和35年(1960)、新聞に連載された「経済航路」には、七沢・飯山温泉旅館経営者などの横顔が次のように紹介されている。
 七沢温泉の福本(元)は古根村憲司、中屋は古根村茂行の経営。この2人はともに腕利きのハンターとして知られている。玉川館の山本均二は元玉川村議で、いまは東丹沢観光旅館組合
長。広沢寺温泉の玉翠楼は市内随一の施設を誇り、新宿生まれの本山源太が経営している。この広沢寺温泉近くには未亡人小泉フクが経営する浅麓荘がある。 
 飯山温泉には3軒の旅館がある。大和屋は狩猟に趣味を持つ伊藤祐次郎。枡屋は小鮎村議の難波彰、元湯は商売上手な石川オムメがそれぞれ経営している。  
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