今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO42(2002.10.15)         飯山温泉に花柳界の灯ともる
.

「飯山芸妓」発足を知らせる元湯旅館のパンフレット(飯田孝蔵)
 飯山温泉は厚木市の北西部、宮ヶ瀬ダムへ向かう県道沿いに位置する。
 昭和35年(1960)に結成された「東丹沢観光旅館組合」に参加する小鮎地区組合員は、昭和41年には左記の6軒になっていた(『厚木市躍進の十年と現勢』)。
 大和屋旅館 ・伊藤祐次郎  元湯旅館・石川ヲムメ  枡屋旅館・難波ウメ  喜楽園・飯森好一  ふるさと旅館・西海玉代  山河荘・山口哲夫
 元湯旅館石川社長によれば、この飯山温泉に芸妓置屋が開業するのは、昭和45年(1970)9月。厚木花柳界から呼ばれた菊乃が、1人の抱芸妓若菊と共に、置屋光川(のち「みつ川」)を開業するのがはじまりであった。同年11月には、厚木から吉弥・かの子(飯山では清花)の両人が移って、福よしと華の家を開業、飯山温泉の芸妓置屋は3軒となった。
 間もなく、飯山では東丹沢観光旅館組合とは別組織の「飯山温泉組合」が結成され、初代組合長にはふるさと旅館が就任した。その当時の回想を、西海利雄は次のように書き残している(「創作その3」)。
 「まず芸者の誘致に私と石川氏(元湯社長)が当たる。道路の不備なこの地、お客様の少ない飯山に来て呉れる芸者がいない。ようやく「保障してくれたら来ても良い」という芸者が現れた。では保障とは……一月に五万円収入(働けたら)があればと云う。当時市内でも三万あれば充分だったのに……(中略)やがて三人来て呉れた」。
 不安が入り混じる飯山芸妓発足であったが、ふたを開けてみると、なんと1人8万円程の働きがあったという。この頃の芸妓には若菊・竜菊・秀丸ほか、福よしには姉妹の芸者がいた。
 芸妓の料亭への送迎や花代の清算事務にあたる見番は、当初、千頭(せんず)にあった喜楽園がつとめた。しかし、この喜楽園は間もなく突然廃業。急遽木村薫が見番を代行することとなり、飯山光福寺入口の借家に移ってその任にあたることとなった。飯山温泉組合募集の芸妓第一号は、福よしに配属となるさゆりであった。
 その後、華の家は転業、厚木花柳界から移った小舟が鈴本を、吉野・琴路も置屋を開業、上飯山には花菱もあったが、いずれも短期間の営業であった。
 昭和48年(1973)8月には、かずみが三枡を、同年11月にはとん子が春日を開業、さらに昭和53年11月には花蝶が喜撰を、妙子も月の家を開業、昭和54年1月には小鶴が佐京を開業した。
 厚木の花柳界が繁栄を続けたその裏では、組織の内部分裂の歴史を繰り返したように、めざましい発展を見せる飯山花柳界でも、やがて同様の歴史をきざむことになるのである。
 昭和54年(1979)3月、元湯旅館が飯山温泉組合から離脱、これを受けて「飯山芸妓置屋組合」が結成される。飯山芸妓置屋組合参加の置屋は、みつ川、三枡、春日、月の家、佐京の5軒。福よしは廃業した。初代組合長となる春日によれば、飯山芸妓置屋組合発足当時の芸妓数は19人であったという。
 一方、飯山温泉組合では、飯山芸妓置屋組合結成に参加しなかった喜撰に加え、華の家が復帰、よし柳、鈴本、梅が枝も置屋を開業した。しかし喜撰は間もなく廃業、新たに文楽が開業して、「飯山温泉組合」の芸妓置屋は5軒となった。
 昭和54年春には、見番事務をめぐるゴタゴタがあった。8年間見番をつとめた木村薫が突然辞任、一時見番不在の状態となったため、芸妓置屋は交代で見番事務に当たることを申し合わせた。
 この間、見番事務を代行した佐京によれば、同年11月、さゆりが開業した置屋えびなが見番専従にあたることになって見番不在の状況は解消されたという。
 飯山芸妓置屋組合では、昭和55年、笑が京の家を開業。飯山温泉の花柳界は、飯山温泉組合所属の芸妓衆と、飯山芸妓置屋組合参加の芸妓衆が、二派に分かれて競い合い、やがておとずれるバブル経済に向かって発展を続けることになるのである。

.