今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO38(2002.08.15)         「ゲイシャワルツ」の時代
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昭和24年の「厚木鮎まつり」広告に掲載された鮎漁関係業者(『厚木町諸記録日誌』)

 昭和25年(1950)6月25日、突如朝鮮の38度線に戦火があがった。北九州や立川、厚木の米軍基地から連日戦闘機が飛び立ち、文字通りわが国は米軍の前線基地となっていった。
 一方、朝鮮戦争は、不景気で行き詰まった日本の産業界に特需景気をもたらし、当然のことながらその余波は花柳界をもうるおす結果をもたらした。「トンコ節」(昭和26年)の大流行に始まり、「ヤットン節」(同年)「こんな私じゃなかったに」(昭和27年)などの、いわゆるお座敷ソングは、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」の大ヒットのよってますます広がっていくのである(『日本流行歌史』)。
 
あなたのリードで 
    島田もゆれる
 チークダンスの 
    なやましさ
 みだれる裾も 
    はずかしうれし
 芸者ワルツは 
    思い出ワルツ

 では、この頃の厚木花柳界は、どのような状況だったのであろうか。
 亀屋旅館のパンフレット「厚木の鮎漁御案内」によれば、「美人芸妓」は60余名、花代は1時間250円(税込)であり、「ゲイシャワルツ」の作詞者西条八十・作曲者古賀政男と、厚木とのかかわりが次のように紹介されている。

 厚木の鮎漁は年ごとに中央人士の好評を呼んで、昨年は釣界の元老佐藤垢石翁をはじめ、作曲家の古賀政男氏、漫画家の小野佐世男、麻生豊の両氏、釣好きで有名な大映スター京マチ子さん、松竹の高杉早苗さん、漫筆家玉川一郎氏、小説家土師清二氏、写真の林忠彦氏など数えきれないほどの有名人が、或いは舟に遊び、或いは釣糸を垂れて相模川の清流に都塵を洗い流した。
 ことに西条八十氏は情緒豊かな厚木芸妓連をたたへて、例の “芸者ワルツ”を作詞するなど、大いに詩曩を肥したが、今年も6月1日の解禁から10月半ばの終期まで、厚木は鮎と清流と、華やかな花柳の街を楽しむ人たちで、多彩な賑いが予想されている。
 「ゲイシャワルツ」について『日本流行歌史』の著者は次のように記している。「神楽坂はん子最大のヒット盤。コロンビア伊藤正憲文芸部長(当時)は、“テネシーワルツに対抗できる日本調のワルツを作りたいと思った”といっているのがおもしろい」
 「ゲイシャワルツ」が世に出た昭和27年(1952)といえば、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)のパチンコ台数が、人口比で日本一といわれた時期でもあった。
 「日本一のパチンコ、十四人に一台の割」の見出しでこのことを報じた当時の新聞記事によれば、昭和26年11月以来急増したパチンコ店は昭和27年1月には20軒に達し、その台数は805台で、当時の厚木町の人口11,515人に比較すると、14人に1台の割になり、「その比率は日本一だといわれている」と記されている。
 また、パチンコ店の急増によって、「最近婦人の出入りが非常に増加しており、買物カゴをぶら下げて半日もねばって行く主婦」もあり、「青少年の不良化の原因となるきざしもみえ始め」、「パチンコによって家庭の金品を持ち出していた」少年もあるので、「少年の不良化防止のため父兄も業者も特に注意するよう」、警察署では警告を発しているという。
 参考として亀屋旅館の「厚木の鮎漁御案内」から「御予算の取り方」を紹介しておこう。
 ◎10名様の場合 御1人様700円(船代、船頭、料理代共)
 ◎小田急クーポン券御利用の場合は往復電車賃を含み御1人様800円です
 なお、小田急新宿駅より本厚木駅までの往復運賃は200円であると記されているので、このパンフレットが昭和28年か同29年の発行であることがわかる(『小田急五十年史』)
 亀屋旅館は花柳界の機関紙『よみもの相武』を創刊した高橋半五郎の創業。明治時代から続いた鮎漁案内旅館、若松屋と新倉が第2次世界大戦で閉店した後、亀屋は相模川観光株式会社を組織して鮎漁遊船会に積極的に参入した。父半五郎のあとを継いで亀屋の社長となる高橋正純は、昭和39年(1964)厚木鮎漁遊船組合長に就任するのである(『厚木市躍進の十年と現勢』)。 

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