今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO37(2002.08.01)         戦後の鮎漁業界を構成する新しい顔ぶれ

昭和24年の「厚木鮎まつり」広告に掲載された鮎漁関係業者(『厚木町諸記録日誌』)
 明治時代以降、厚木花柳界は、相模川の鮎漁遊船会を売り物として世に知られるようになった。その歴史は、一方では花柳界を構成する旅館・料理屋の栄枯盛衰の歴史でもあった。
 ここで、第2次大戦後、経済復興の波に乗って、再び華やかさを取り戻すまでの花柳界の動きを、旅館、料亭を中心に見ておこう。
 明治時代末期、古久屋・若松屋・高島亭の3旅館が中心となって始められた鮎漁遊船会には、やがて萬八十・新倉という新勢力が参入、大正時代にはこの5軒の旅館・料亭が覇を競うように鮎漁客を各地から厚木へいざなった(「今昔あつぎの花街」23)。
 しかし、大正12年の関東大震災では被災した古久屋・高島亭が廃業、新たに石多家・水明楼が鮎漁遊船案内旅館として開業する。
古久屋は江戸時代から続いた旅館で、主人仁藤佐兵衛の妻は江ノ島えびす屋の娘であった。関東大震災後は厚木キネマ舘の経営にあたった(「前掲出24)。
 高島亭は仲町(現厚木町1b5)にあった旅館。明治43年(1910)神奈川県立第3中学校(現厚木高等学校)を卒業、大正15年(1926)に『ホテル読本』を翻訳出版する平本章三は、高島亭主人平本綱五郎の子供と思われる(「緑陰閑話」『大屋先生』)。 
 石多家は古久屋の料理人石井荘吉の開業。大型船に座敷をしつらえた水心亭を相模川に浮かべた(『写真集厚木市の昭和史』)。水明楼は兼子マツが開業。離れ座敷千鳥園の建物は、平成3年まで現存した(『東町二番』)。
 関東大震災後、さらに厚木花柳界が2度目の変革期を迎えるのは、第2次大戦前後の頃であった。
 昭和24年(1949)の「厚木鮎まつり」広告に掲載された鮎漁案内業者は、亀屋・大島屋・三笠・水明楼・厚木園・海老名屋の6軒。鮎料理店には丸田屋・丸花・鶴屋・末広・万八十(まんやそ)・静本の料亭が名を連ね、メンバーが大きく入れ替わっていることが分かる(「今昔あつぎの花街」36)。
 石多家・新倉は昭和10年代に閉店。若松屋の建物は日産自動車厚木工場の寮となった。
 亀屋は高橋半五郎の創業、第2次大戦後は鮎漁遊船会に積極的な経営を行った。大島屋は明治22年(1889)篠崎浦治郎の妻が料理屋を開業したことに始まる(『厚木の民俗2』)。現在でもあゆみ橋際で営業を続けている。三笠は昭和18年(1943)軍需工場に転業した新倉のあとに開業、厚木園・海老名屋は海老名市河原口の相模川河畔にあった。厚木園は万八十の経営であったが、昭和18年、相模湖の湖底に沈んだ勝瀬集落から移住した岡部京一が購入した(『厚木市躍進の十年と現勢』)。
 丸田屋は丸田佐傳次の開業。寿町1丁目に開店する以前は、旭町3丁目にあった。丸花は昭和4年(1929)、本厚木駅前に小林良治が創業。昭和32年には、中津川河畔に銀鱗閣を開業した。鶴屋は第2次大戦後、西洋料理店楽養軒のあとに桜井雄吉が開店。昭和38年には中津川河畔に三淙園を開業した(『前掲書』)。
 末広は昭和13年(1938)石多家のあとに大矢モトが開業。大矢モトは末広と道路を挟んだ反対側「厚木町南天王大縄手一七三七番地」(現中町1丁目8)で鉱泉を掘り当て、昭和18年には、「本鉱泉 ハ蛋白石濁ニシテ特異ノ臭味ヲ有シ、微弱アルカリ性反応ヲ微ス」と記された「試験成績」が神奈川県から交付された(『厚木郷土史』第二巻)。また、昭和21年(1946)の「神奈川民声新聞」6号に掲載された「昭和任侠男女鑑」によれば、大矢モトは「大磯税務署管内同業者中では第二位の納税者」であると紹介されている。厚木税務署の開署は昭和22年8月1日。開署以前、厚木は大磯税務署管内であった。
 静本は大正8年(1919)溝呂木礼助が開業した。「厚木でうなぎといえば静本といわれるほど、うなぎ料理で知られた料亭である」(『厚木市躍進の十年と現勢』)。

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