今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO36(2002.07.15)         鮎まつりと川開き花火大会の復活

昭和25年6月1日の川開き花火大会のポスター(飯田孝蔵)
 第2次大戦後、鮎まつり花火大会が復活したのは昭和23年(1948)8月のことであった。
 8月14・15日の「復活、水郷厚木の鮎まつり」は、台風の影響で15・16日に延期、灯籠流し、花火大会、演芸大会などが催された。
 「踊れ歌への平和一色」人出10万人といわれた「厚木名物のアユ祭」が、昔なつかしい自転車競争や仮装行列、川せがき、灯籠流し、歌舞伎や山車の渡御に加え、「六十発の花火大会」が開催された。
 川せがき、灯籠流しは、昭和21年(1946)8月17日、各国戦死者及び死者と一般万霊の供養を目的とし、厚木神社裏の相模川で、追悼法要と数百の灯籠流しが行われたことに続くものであった。また鮎まつりは、「戦争で世界に知られた”アツギ“を葬り、こんどは平和国家建設の線に沿って」、愛甲郡(相川地区を除いた厚木市域と愛川町・清川村を合せた地域)全域の観光振興を目的として進める事業の一つとして発案されたものであった(『厚木町諸記録日誌』)。
 昭和22年春、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)の商工業振興対策委員会では、接客業者部会が中心となり、厚木観光協会(仮称)を結成、厚木町に名物鮎の釣案内所や休憩所などを設置し、鮎に関するみやげ物類の製造・販売を行うことや、年に1回、町主催のあゆ祭りを行い、釣大会、厚木音頭による舞踊大会を開催し、鮎漁遊船会を復活することなどの構想が話し合われた(「神奈川新聞」)。
 このような第2次大戦後の経済復興の流れを受けて、「鮎まつり」と「花火大会」の開催が決定したのであろう。昭和23年の鮎まつり主催者は、「厚木鮎まつりの会」であった。
 また、昭和24年(1949)の「厚木鮎まつり」の広告によれば、開催日は8月15日と16日の2日間。15日には灯籠流しと演芸大会が行われたことが分かる。
 この「厚木鮎まつり」広告に掲載された鮎漁案内業者は亀屋、大島屋、三笠、厚木園、海老名屋、水明楼の6軒。鮎料理店には丸田屋、丸花、鶴屋、末廣、万八十、静本の料亭が名を連ねている。
 以降、厚木鮎まつりは8月15・16日を定例日とし、15日に灯籠流し、16日の花火大会をセットとして開催されることになる。鮎まつり花火大会は、昭和33年(1958)以降は開催日が一定せず、現在のように8月の第1土曜日となるのは昭和46年の頃である。
 さらに昭和25年(1950)6月1日には、相模川の鮎漁解禁日に合わせて「川開き」も開催されている。主催は厚木料亭組合と芸妓置屋及び芸妓で組織する「厚木二業組合」。後援は厚木町役場であった。
 「相模川鮎解禁川開き大会」のチラシから「厚木料亭組合」のメンバーを上げると、左記のようになる。
 末廣、静本、大島屋、亀屋、鶴屋、万八十、千登世、三浦家、丸花、丸田屋、満美家、松家、長楽、大阪屋、叶家、吉金、大和家、吉河屋(家)、玉井食堂、一二三軒、丸高。また、芸妓置屋には、豊の家、喜久の家、分勢喜屋、勢喜家、照小松、春の家、嬉しの、萬千、春本、新美晴、分豊の家、千代本、末よし、芳本、文の家、鈴の家、鶴の家があり、次にあげる41名の芸妓名が記されていた。
 とよ若、とよ美、和子、光菊、喜代菊、京奴、照葉、満菊、小鈴、小った、鈴奴、さか江、三枝、秀弥、吉弥、新弥、君弥、あや子、重子、敏子、日出丸、豆千代、早苗、ちゃら子、春美、春千代、春名、五郎、えくぼ、米太郎、小雪、ゆたか、福丸、千代太郎、さくら、町子、芳香、文弥、金時、福助、つる代。
 昭和25年6月1日の川開き大会では、「灯上花火百数十発」と厚木芸妓総出演による舞踊や子供舞踊、一流芸能人が出演する「余興」に加え、相模川河原の舞台では景品抽籖会が行われた。1万5千枚発行された抽籖券の特等賞品は自転車1台。家具、時計、履物、サービス券など、その他多数の景品が用意された。8月の花火大会とは別に、6月には川開き大会が開催され、花火大会も行われているのは、その背景に厚木花柳界の本格的な復興があったことを示している。

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