今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO35(2002.07.01)         第2次世界大戦と厚木花柳界

玉代・祝儀明細長(飯田孝蔵)
 昭和19年(1944)3月4日、「朝日新聞」には「享楽的追放・帝都の作戦・あす店閉める料理屋・待合」の見出しで、料理屋や待合、芸妓及び芸妓置屋、カフェーなどの特殊飲食店が閉鎖される記事が掲載された。
 これは同年2月25日の閣議で決定した「決戦非常措置要綱」に基づくもので、3月5日からは厚木の三業組合も一斉休業に入り、「其後の措置方策をとる」こととなった(『大東亜戦争下厚木町郷土記録』)。
 当時の神奈川県下では、料理屋555軒のうち、芸妓が出入りし高級と認められて閉鎖対象となるのは311軒。芸妓は1,547名、芸妓置屋は663軒であった。とはいえ、料理屋でも一般の食生活に寄与し、享楽的でないものは、改めて飲食店として営業が許可された。また、前借もなく自前の芸妓には転職させ、転職しがたい者は「従業婦」の名目で「慰安的営業」に就業できる方途が講じられた(「神奈川新聞」)。
 激しさを増す戦火。昭和19年には厚木の商店も「指で数へられる程に」少なくなり、出征兵士の「無言の凱旋」が相次いだ(大東亜戦争下厚木町郷土記録』)。 
 伝統ある厚木花柳界の灯が消えて1年5か月余。昭和20年(1945)8月15日、日本の敗戦によって第2次世界大戦は終結。同年8月20日には連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
 『厚木町諸記録日誌』によれば、8月31日には「早くも連合軍記者の自動車が厚木町に表はれ」、9 月8日には多数の連合軍将兵がジープやトラックに乗りつけ、「開店している商店に入って買物をして、町も活気を呈してきた」。
 9月8日には厚木キネマが営業を開始。「順次花柳界も復活開業準備を急いでゐる」など、急変する町の情景が伝わってくる。
 昭和20年12月には、服部氏が元町木村綿店の綿工場を借用して、フジヤマダンスホールを開業、大手町(現寿町1丁目) にはキャバレーパレスも開店した。さらに昭和21年3月には「麻雀」のあそび場、天王町倶楽部も開店、「進駐軍向」のみやげ物を売る店は50余店を数えるに至った。
 このような状況を受けて、厚木町(市政施行以前の旧愛甲郡厚木町)当局は、警察署や町内有志と協議して、進駐軍のための慰安所設置を計画し、厚木の花柳界と交渉したところ、「冗談じゃない。芸者はしていても日本女性なんですよ」と、ものすごい剣幕で反対され、誰一人として応募する者はいなかったという「「厚木芸者の心意気」『県央公論』昭和42年11・12月号)。
 また、第2次大戦後の急激なインフレは、厚木花柳界にも少なからぬ影響を及ぼした。昭和21年1月、厚木花柳界では花代値上げをめぐる紛争が生じ、芸妓側は団結して「箱止(はこどめ)」という強行戦術をとって料理屋側と対立した。
 「箱止」の「箱」は三味線を意味する。つまり芸妓側は団結してお座敷へ出ることを拒否したのである。
 この花街争議は、料理屋と芸妓屋の幹部が話し合った結果、1週間ぶりに解決して、あでやかな姿をした芸者衆が再び料理屋に出入りするようになった。花代の暫定値段は1時間税込13円25銭、2時間では22円となり10円の値上げとなった(『厚木町諸記録日誌』) 。
 昭和21年10月には芸妓たちが「厚木芸妓組合」を結成、左記の役員を選出した(厚木の商人』) 。
 組合長  愛子
 副組合長 力弥、勝代
 会 計  秀弥
 理 事  小津多、政江  
 昭和21年といえば「リンゴの歌」「東京の花売娘」「みかんの花咲く丘」「かえり船」などが巷に流れていた時代である(『日本流行歌史』)。翌22年4月には婦人参政権が認められた第22回総選挙が行われ、39人の女性議員が誕生する。
 昭和22年8月「厚木料理屋組合」は「厚木貸席業組合」と改称、「其の筋の御許可を得」て、次にあげる14軒の料理屋が加盟して「貸席業」を始めた(『厚木町諸記録日誌』) 。
 千登世、長楽、吉河家、吉金、大阪屋、大島屋、大和屋、丸田屋、松屋、叶屋、有田屋、三浦屋、静本、末広
 「貸席」とは、料理を出して商談や会合に座敷を供することである。厚木貸席業組合の発足は、戦後の花柳界復活と歩をそろえるものであったろう。 

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