今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO34(2002.06.15)         皇軍の守り「羽衣号」

「羽衣号」と厚木の芸妓<1934>(飯田孝蔵)
 昭和9年(1934)10月、相模川、中津川、小鮎川の3河川が合流する地点の相模川で、厚木飛行場の開場式が賑やかに行われた。当時の新聞記事は、この開場式の様子を「河原に動揺めく十万大衆」の見出しで報じ、民心を鼓舞している(『写真集厚木市の昭和史』)。
 相模川河川敷に開場した厚木飛行場は、民間で設立された大日本義勇飛行会が、全国の少年に呼びかけて集めたタバコの銀紙を売って得た資金で飛行機を購入、地元民の協力で河原の一角が整備されたものであった。厚木の花柳界では通称「銀紙飛行機」といわれたこの大日本義勇会の活動に協力し、お客や自分たちが吸うタバコの包装銀紙・ねり歯みがきのチューブを集めて、飛行機購入の資金とすることになった。
 この時、飛行機に乗って空を飛んだ力弥さんは、日本髪を結った頭が強い風で大変でしたと、当時の思い出を語っている(聞き取り録音テープ)。

 では、当時の花柳界を構成していたのはどのような人たちであったのだろうか。
 昭和9年の『よみもの相武』には、左記の料理屋やカフェー、芸妓置屋などが広告を載せている。
 春本、金本、養心軒、照小松、田島屋、カフェー高橋、うれしの、万千、駅前吾妻屋、本町吾妻屋、高橋屋、カッフェーアツギ、喜久廼屋、三浦屋、〆の家、勢喜家、末吉、芳本、辰巳屋、清の家、高砂屋、サロンマミ、水明楼
 また、『よみもの相武』にみえる芸妓、女給は左記の60名を数える。
 里丸、小万、おちょこ、雪江、市丸、広美、ちゃら子、花千代、千鶴子、力弥、秀弥、勝次、操、駒子、初菊、つばめ、朝日、いろは、かほる、錦龍、小ねこ、歌丸、染丸、鈴丸、日出勇、千代丸、千鳥、ラゝ子、リゝ子、ルゝ子、レゝ子、ロゝ子、ナゝ子、若菊、万菊、かるた、花子、はがき、浦子、小舟、由良子、玉子、蔦子、美津江、久子、照子、栄、駒千代、富龍、芳香、おかる、八千代、長治、春子、喜代子、花子、美代子、マツ子、満枝。
 右にあげた女性たちに加え、料理屋、旅館、カフェーなどの関係者やお客さんたちがいたことを考えれば、協力者は何百、あるいは何千人という数であったものと思われる。
 木箱いっぱいにたまったねり歯みがきのチューブや、まとめて玉にした銀紙を寄付した時の記念写真集には、次のように記された箱のふたが写っている。
「練歯磨のチューブと「たばこ」の銀紙で、芸妓諸姉の飛行機「羽衣号」を作り、皇軍の護りに備えましょう」
 当時発表されていたタバコは、リリー、チェリー、コハク、ホープ、さつき、あやめ、白梅、朝日、敷島であるが、内包装に銀紙(実際には錫箔)が使われているのは、リリー、チェリー、コハク、ホープの両切りのタバコであった。
 昭和12年(1937)7月7日、廬溝橋事件を契機として日中戦争がおこり、やがて日本は第2次世界大戦という長い戦争の時代に突入する。昭和12年10月6日、厚木花柳界では130余名の会員が集合して「報国婦人会」を結成した。「横浜貿易新報」によれば、報国婦人会は厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)の芸妓、女給、飲食店の女中さんたちが「各人自発的に、出征将兵の見送りや献金に努めてゐるが、彼女等の見送りは兎角一部から誤解を招く恐れがあるので」、銃後後援の「新団体」として結成したものであるという。
 結成式当日は、中込卯三郎厚木警察署長より「時局に対する訓示」があり、会長、副会長を選任した後、「エプロンに会員章の廻しをつけた一同は折よく出征する勇士」を送った。
 また、報国婦人会は出征家族の慰問も行い、「天晴れ銃後の守り」をはたすこととなったが、この費用は一般寄付と、お客さんから1人10銭の奉仕を得てまかなうこととされた。
 ところが、厚木飲食店組合の従業者は、10月下旬には報国婦人会から分離して「赤心婦人会」を結成、カフェーアツギの近藤コウを会長に選任した。
 赤心婦人会は、名誉会長に中込厚木警察署長を推薦、副会長にはバーボンと花蝶の主人が推され、「大いに銃後の赤誠を尽くすことになった」。
 昭和14年(1939)8月、厚木町役場は料理店、飲食店、カフェー、待合、遊戯場、興業場などの営業時間の自粛などを定めた「興亜奉公日実施要綱」を配布した(『支那事変厚木町関係記録』)。花柳界にも次第に戦争が暗い影を落し始めていたのである。

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