今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO31(2002.05.01)      昭和初期の鮎漁遊船会

昭和初期の鮎漁遊船会(飯田孝蔵)

 昭和2年(1927)の小田急線開通によって、新宿駅から相模厚木駅(本厚木駅)までが約1時間で結ばれた。
 昭和初期に発行された若松屋、新倉、石多家、水明樓などの相模川鮎漁遊船会案内パンフレットを見ると、小田急線・神中線(現相模鉄道)の時刻表に加え、平塚、藤沢、戸塚などからの乗合自動車路線も記載されており、新たに開通した交通機関を利用して多くの鮎漁客が厚木を訪れていたことが推測できる。若松屋、新倉は明治時代の開業であるが、石多家、水明樓は関東大震災後に新たに開業した料亭旅館であった。
 一方、明治時代から大正時代前期にかけて多くの鮎漁客を受け入れていた高島亭は大正12年(1923)の関東大震災で廃業、江戸時代から続いた古久屋も閉店した。新しく開店した石多家(石井荘吉)は、古久屋の料理人であり、3番の電話番号も石多家が古久屋から引き継いだものであった。
 では、各旅館のパンフレットから鮎漁遊船会の料金と漁法を紹介しておこう。
 まず昭和6年(1931)の若松屋パンフレットを見ると、客船、船夫、漁師、漁具、料理人、料理材料、弁当、小物代などを含む基本的な鮎漁料金が次のように記されている。
 10人以上  1人2円80銭
 30人以上  1人2円50銭
 50人以上  1人2円
 しかし、この料金には、酒などの飲物代や芸妓の花代は含まれていないので、実際にはこれをかなり上回る金額が必要だったと思われる。参考として当時の鉄道料金を記すと、小田急線新宿b厚木間は86銭、神中線横浜b厚木間は65銭であった。さらに、同じ昭和6年の石多家パンフレットの料金を見ると、10人以上が1人2円95銭、30人以上が2円60銭、50人以上は2円20銭となっているので、1人2円から3円位が基本的な料金相場であったことがわかる。
 また、新倉旅館のパンフレットには、次にあげる飲物代も記載されていて当時の値段を知る手がかりとなる。
 御酒  1本30銭 40銭
 ビール 1本40銭 50銭
 サイダー シトロン 1本20銭 25銭
 なお、各旅館のパンフレットに記された漁法は、蚊針釣・かけど(コロガシ)・友釣・鵜縄・鮎五郎引網・五郎引網・大網・よせ網・船打・いけすなどであり、各漁法の内容が紹介されていて参考となる。
 石多家のパンフレット「相模川鮎漁御案内」は、次のようにはじまる。
 「水の面に映る碧い大穹(おおぞら)と、せゝらぎ渉る初夏の涼風に心行くまで自然を味ひ乍ら、溌剌たる香魚(あゆ)に舌鼓を打たる愉快は、悉ゆる人生の俗塵を脱して、桃源の妙域に悠遊せしむるの感あらしめるのでせう!大自然は雙手を揚げて、皆々様の御来遊をお待ちきて居ります」
 とはいえ、関東大震災後の都市復興にともなう砂利需要の激増は、相模川の鮎漁にも多大な被害を及ぼす結果となった。
 昭和3年(1928)6月の「横浜貿易新報」、「伊勢ブラのペーブメントと相模川の鮎の卵との因果話」には、「横浜の復興事業で相模川の砂利を攫(さら)って来る。砂利ばかりなら好いが鮎の卵まで一所に浚(さら)って来る。鮎の卵で出来たペーブメント(舗装道路)横浜ッ児が靴で蹴飛ばして歩くなどは一寸珍しい因果関係であるが、その為に相模川の鮎は絶滅という有様、そこで県が3千円を投じて、今年は約20万尾の鮎の子供を放流した。(下略)」と記されている。
 昭和12年(1937)5月には、相模川鮎漁遊船組合と相模川船夫漁師組会が結成され、左記の役員を選出した(『厚木郷土史』二巻)。遊船組合長 岩崎コウ(若松屋)、副組合長 石井荘吉(石多家)、理事 金子マツ(水明樓)、理事 新倉清(新倉)、会計 篠崎由起枝(大島屋)。相模川の鮎漁は「従来京浜地方太公望、或は遊船客に対し与えていた種々の悪風を断乎一掃し」、「各漁区入漁の共通切符も制定」するなど、「ジャンジャン紹介宣伝」することとなった。

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