今昔あつぎの花街   飯田 孝(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO30(2002.04.15) 昭和初期の厚木のカフェー

カッフェアツギのマッチ(飯田孝蔵)

 「カフェー」は「カフェ」「カッフェ」の俗称で、「かフェ」には(1)珈琲店・喫茶店。(2)女給が接待して主に洋酒を供した飲食店。の2つの意味がある(『広辞苑』)。(1)の珈琲店・喫茶店は、わが国では幕末の横浜に始まり、東京では明治21年(1888)上野に開店した可否(カツヒー)奈館が最初とされる。(2)の女給が接待する飲食店は大正期頃から昭和初期頃にかけて流行した。
 『GEISHA「芸者」―ライガと先斗町の女たち』によれば、今のバーのホステスの前進であるカフェーの女給について、「カフェーの女給が客に受ける点はまずその近代的なところであった。すでに長くなった歴史からして当然、芸者は封建的で古めかしいという印象があったが、女給にはそれがない。数年の魅力的なモダンな暮らしを求めて、都市からも地方からも若い女性が女給になり、その数は大変なものだった。昭和5年から9年までの4年間に約5万人から2倍にはね上がったという。
 芸者の数は昭和4年に全国で8万人であったが、昭和9年には7万2千人に落ちており、女給のほうが多くなったわけである。この時代は日本のジャズ時代と言ったらよいだろう。カフェーの女給はその中心にあった」と述べている。
 昭和10年頃の厚木には、大手町・弁天町(現寿町1丁目)のカッフェアツギ・カフェー満州、カフェー高橋、元町のカフェー花蝶があり、厚木松竹館敷地際のカッフェアツギでは、ララ子、リリ子、ルル子、レレ子、ロロ子の5人の女給が客の接待に当たっていた。
 喫茶店では外まで聞こえるように、「ラ・クンパルシータ」「セントルイス・ブルース」のレコードをかけていれば、それにつられてハイカラ好みの若者が店へはいってくるといわれた時代であった(『歌の昭和史』)。カッフェアツギでは、夕方になると、屋根の上に取りつけた拡声器から音楽を流して客を呼び込み、日暮れともなると、じょう橋(相模橋の俗称。現あゆみ橋)を渡って海老名市方面からも若い衆が来たという。また、昭和9年(1934)創刊の『よみもの相武』には、「カフェー虎の巻」があって、「女給さんにもてる」6項目の「戦術」が掲載されている。
 「神中沿線(現相鉄線)の春は招く」(「横浜貿易新報」)には、当時のカフェーの様子が記されている。記者仲間らしい数人は持参の酒やにぎり飯等を厚木の河原で飲食した後、のどのかわきをいやすと町へ向かった。
 「厚木の町へ乗り出したのはこれからが春だ。やっとカフェーの様なところを見つけて一同ドヤドヤと入る。別嬪さん2人呆気にとられている(中略)。
 こじんまりとしたカフェーであった。別嬪の女給さんが2人、ドヤドヤと入ってきた我等の異様な風体に驚きの眼を見張った。隅の方でチビチビやっている常連らしい街の兄イちゃんは、不作法な闖入者に憾みのまなざしを向けた。酒党はビール、然らざるは紅茶というやうな平凡な好みが並べられた。加山君の如きは水ばかり飲んでいた。
 4,5年前、鮎漁に来た時に「チト訳のあった妓と逢ふ厚木の灯」、「鮎の町厚木は恋の灯がともり」などと詠まれたことが思い出される。厚木中学の校庭に於ける県下中等学校体育大会へ来て、冬外套に包まれながら大山嵐を寒いと感じたことなども思い出される。
 ビールもあっさりとコップを伏せた。紅茶も2杯とは飲めなかった。参々伍々と厚木駅へ歩く。野原の中へ取り残されたやうな厚木の駅は、大して歩きもせぬに草臥れ顔の一行へ、時間の余裕を残して寂然として日永の春をたたえていた」 
 
 わたしや夜咲く 酒場の花よ
  赤い口紅 錦紗の袂
  ネオ・ライトで 浮かれて踊り
  さめてさみしい 涙花 

 昭和5年(1939)羽衣歌子、藤本二三吉が歌ってヒットした「女給の唄」である。

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