今昔あつぎの花街   飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO29(2002.04.01) 昭和9年の「厚木音頭」と「厚木小唄」

 現在も唄われている「厚木音頭」が発表されたのは、昭和9年(1920)の夏であった。作詞は栗原白也。作曲者の大村能章は、「野崎小唄」、「明治一代女」、「麦と兵隊」などのヒット曲を世に送り出し、中山晋平、古賀政男、野口夜詩とともに、作曲界四天王の1人に数えられていた(「大村能章」『相模人国記』)。
 昭和11年(1936)出版の『歌の武・相・豆、郷土の民謡小唄集』によれば、「厚木音頭」の作詞者栗原白也は、「横浜をどり」、「博覧会音頭」、「神奈川おけさ」、「綱島音頭」、「多摩川音頭アユ鷹踊り」、「湘南小唄」なども作詞しているので、昭和時代初期の新民謡ブームにのって、数多くのご当地ソングを手がけていたことが分かる。
 厚木芸妓組合提供のチラシによって、その「厚木音頭」を紹介しよう。

「小唄入り厚木風景」絵はがきの袋(飯田孝蔵)

   ハァー
   繭の山から厚木が明けりゃ セノセ 
   銀のうろこの ヨイトサノ 鮎をどる サテ
   さんさんさらりと相模川 ハア 瀬の瀬の音頭で踊りゃんせ(以下はやし同じ)
   アユは若アユ女は二八
     船頭まかせの屋形船
   続く上土手川風受けりゃ
     桜吹雪が降りかゝる
   川は三股思いは一つ
     飛んで厚木の飛行場
   御幸仰いだとび尾の山に
     心若草もえまさる
   情け厚木はやらずの雨か
     洩れる爪弾き大手町
   西は夕焼け大山様の
     森はしょんぼりあかね雲
   河原すゝきはあっちこちなびく
     月に浮かれりゃしょんがいな
   月に見られりゃ噂の種よ
     人目しのんで鮎津橋
   川を距てて灯と灯がうつる
     恋のかけ橋相模橋
   相模厚木へ神中で来れば
     どうせストップバスもとぶ
 昭和年代初期の新民謡全盛期に、新作地方小唄誕生の母体となったのは、地方新聞社、花柳界、商店街、電鉄会社、温泉旅館などであった。昭和5年(1930)の「祇園小唄」は、東京葭町の花柳界出身歌手藤本二三吉、昭和8年(1933)に小唄勝太郎、三島一声が唄った「東京音頭」は全国的な大ヒットとなった(『日本流行歌史』)。
 昭和9年に発表された「厚木音頭」は、このような時代背景をうけて、明治時代から唄われていた「厚木音頭」に替わってつくられたものであった(「今昔あつぎの花街」〈11〉参照)。
 また昭和八年、新聞に連載された「詩の町・歌の村」には、明治時代の「厚木音頭」とともに、2つの「厚木小唄」が紹介されている。
 そのひとつは、昭和6年(1931)、近藤三郎が作詞した「厚木小唄」で、厚木の竹村書店から「小唄入り厚木風景」絵はがきが発行されて好評を博したという。近藤三郎は地方新聞の記者で、妻は厚木カフェーの経営者であった。
  
さがみ厚木はあの川の町 屋形船からあの声が
  さがみ厚木はあの妓の町よ すいたあの妓が待ちわびる
(以下略)
 もうひとつの「厚木小唄」は、厚木警察署今井巡査部長の作で、武道大会後の宴会で披露され、さらに印刷物として配布された。
  
清い流れはチョイトさがみ川 鯉もすみます鮎もすむ
  嬉し厚木はチョイト灯の街よ 赤いネオンの影もさす
(以下略)
 しかし、この2つの「厚木小唄」は、間もなく歌われなくなってしまったようである。
 大村能章作曲の「厚木音頭」が世に出ると、旧来の「厚木音頭」は、「厚木小唄」と改称されて厚木の花柳界で生き続けることになるのである。

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